ハレー艦隊ハレー艦隊(ハレーかんたい Halley Armada)とは、ハレー彗星が1986年に地球接近した際に、ハレー彗星の観測に用いられた宇宙探査機群の通称である。英称をそのまま片仮名転記してハレーアーマダ、スペイン語の読みに倣ってハレーアルマダとも呼ばれる。複数の探査機(probe)が、順を追ってハレー彗星に近接観測する様子、及び、その国際協力による観測態勢を艦隊になぞらえた表現である。 概要ハレー彗星は1986年に地球へと接近したものの、この時は軌道の関係で、地球上からの観測には向かなかった。しかし、前回の1910年にハレー彗星が地球へと接近した時とは異なり、宇宙に探査機を打ち上げる技術を既に複数の地域が獲得しており、各国が協力してハレー彗星の観測を宇宙探査機を用いて行うことになった。多国の複数の宇宙探査機で同一天体を観測するものとして、それまでに類を見ない国際協力プロジェクトであり、各宇宙機関・探査機は観測分野を調整し、彗星観測に当たった。先行する探査機は、ハレー彗星の彗星核に最も接近する、欧州宇宙機関のジオットの軌道修正に必要なデータを提供するための観測も担った。アメリカ航空宇宙局は新たな探査機をハレー彗星に接近させることはなかったが、代わりに既に宇宙にあった探査機の軌道を変更することでハレー彗星の観測を行った。このほかスペースシャトルを利用した大気圏外観測を行う予定であったが、1986年1月のチャレンジャー号爆発事故の影響によりシャトルの運航中止の影響で取り止められた。また、当時は冷戦中であったソビエト連邦も探査機を打ち上げて協力した。 打ち上げ
ハレー彗星への最接近と観測
各国の対応ソビエト連邦当時は冷戦の最中であり、ソビエト連邦の宇宙開発も秘密主義の下に置かれていた。しかし、ハレー彗星の探査に関しては例外的に外部に開放的なミッションであった。2機の大型探査機には欧米の観測機器・技術が採用された。
→詳細は「ベガ1号」を参照
→詳細は「ベガ2号」を参照
→詳細は「ベガ計画」を参照
日本日本の宇宙科学研究所は自主技術にこだわり、比較的独自路線で参加していた。宇宙開発事業団(NASDA)との事業の区分の為に、ロケットの大きさが制約された中で日本初の惑星間探査機打ち上げロケットM-3SIIを新たに開発した。M-3SIIは全段が固体燃料ロケットであり、液体燃料ロケットのように燃焼中の出力調整が事実上不可能なために、ハレー彗星に向けた軌道に精密に乗せることなど当時不可能だと言われていたものの、成功させた。しかし、M-3SIIの打ち上げ能力の制約から、ソビエト連邦の探査機が3 t前後であるのに対し、日本の探査機は約140 kgと小型である。準同型機のさきがけとすいせいの2機が製作され、先行するさきがけを試験機とし、その運用結果や取得したノウハウをすいせいの運用にフィードバックした。ただし、準同型機とは言え、それぞれ異なる観測機器が搭載された。
→詳細は「さきがけ (探査機)」を参照
→詳細は「すいせい」を参照
欧州欧州宇宙機関は中型の探査機1機を打ち上げた。これは欧州初の地球重力圏脱出ミッションであり、またハレー彗星のコマに突入して中心核を近距離から撮影するという、ハレー艦隊の中でも野心的なプロジェクトであった。彗星から飛散する物体が多数命中することが予想されたため、ジオットには特別な防護が施された。欧州各国はこの他に、ソビエト連邦やアメリカ合衆国の探査機にも協力しており、幅広くハレー艦隊に関わっていた。
→詳細は「ジオット (探査機)」を参照
アメリカ合衆国元々ハレー彗星の国際共同探査を提案したNASAだったが、ハレー彗星の探査に充分な予算が付かず、当初予定されていたハレー彗星探査機のHIM(Halley Intercept Mission)は財政難のため頓挫した。結果的に他国と比べ一歩距離を置いて参加する形となった。新たにハレー彗星へ向かう探査機を打ち上げず、代わりに欧州と共同で運用していた探査機ISEE-3を、ICEと改名してハレー彗星探査に転用し、月スイングバイを利用した複雑な軌道変更を経てハレー彗星に向かわせた。また、1965年-1967年に打ち上げられ、4機体制で太陽周回軌道を網羅して惑星間環境の観測を行っていたパイオニア6号-9号のうち、6号、7号、8号が機能を維持しており、7号がハレー彗星まで1230万 kmまで接近した。その他に、地球周回軌道からハレー彗星を観測する計画も予定されていた。
→詳細は「ISEE-3/ICE」を参照
→詳細は「パイオニア計画」を参照
→「チャレンジャー号爆発事故」も参照
ただし、SPARTAN-203とASTRO-1は他の探査機と違い、地球周回軌道からハレー彗星を観測する計画であったため、無事に打ち上げられていた場合にハレー艦隊に数えられていたかどうかは不明である。 その後の国際協力探査ハレー艦隊は各国が太陽系探査を協力して実施する先駆けのケースとなったが、その後しばらくはハレー彗星ほどの本格的な国際協力体制は見られなかった。しかしこれを機に日欧が太陽系探査に進出したことや、冷戦の終結、予算の制限などにより、各国の探査で相互に配慮する様になった。2003年12月から翌年1月にかけて日欧米の探査機群が相次いで火星を訪れた、いわゆるマーズラッシュの際には互いのデータを利用してより高精度の探査を行うことが提案されるなど、太陽系探査は協力体制が基本になっていった。そして2007年以降は中国やインドも月・惑星の探査に進出し始め、その後の太陽系探査はハレー彗星以来の国際協力体制で臨む方向で話が進められている(宇宙探査機#国際協力体制も参照)。
脚注・出典
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