ハウ伯爵(第2期) Earl Howe
紋章記述
Arms : Quarterly: 1st and 4th, Or, a Fess between three Wolves’ Heads couped Sable (Howe); 2nd & 3rd, Argent, on a Bend Sable, three Popinjays Or, collared Gules (Curzon).
Crests : 1st, Out of a Ducal Coronet Or, a Plume of five Ostrich Feathers Azure (Howe); 2nd, A Popinjay wings displayed and inverted Or, collarge Gules (Curzon).
Supporters : On either side a Cornish Chough proper, chained around the neck Or.
[ 1]
創設時期 1821年 7月15日 創設者 ジョージ4世 貴族 連合王国貴族 初代 初代伯リチャード・カーゾン=ハウ (英語版 ) 現所有者 7代伯フレデリック・カーゾン (英語版 ) 相続人 カーゾン子爵トーマス・カーゾン 相続資格 初代伯の嫡出直系男子 付随称号 カーゾン子爵 ハウ男爵(GB ) カーゾン男爵(GB) 現況 存続 邸宅 ペン・ハウス 旧邸宅 パラム・パーク・ハウス モットー カーゾンのものはカーゾンに (LET CURZON HOLDE WHAT CURZON HELDE)
ハウ伯爵 (英語 : Earl Howe )は、イギリスの伯爵 、貴族 。有史以来2度創設されており、第1期はグレートブリテン貴族 として、現存する第2期は連合王国貴族 としてカーゾン家が保持する。
歴史
ハウ家(第1期)
初代ハウ伯爵(第1期)リチャード・ハウ
第3代ハウ子爵ジョージ・ハウ 将軍英国陸軍軍人としてフレンチ・インディアン戦争 に従軍した。
第5代ハウ子爵ウィリアム・ハウ 将軍。ハウ3兄弟の末弟。アメリカ独立戦争を指揮した。
ハウ伯爵家は17世紀 の政治家サー・ジョン・ハウ (c.1594-c.1671) を祖とする一族であり、そのジョンは1660年 に(コンプトンの)準男爵 (Baronet, of Compton) 位を授けられている[ 2] 。その孫スクループ (1648-1713) [ 注釈 1] がノッティンガムシャー選挙区 選出庶民院 議員を務めたのち、1701年にアイルランド貴族 としてハウ子爵 (Viscount Howe) 及びグレノーリー男爵 (Baron Glenawley) に叙されたことで、ハウ家は貴族に昇った[ 3] [ 4] 。
2代子爵エマニュエル (1700?–1735) は父と同様に庶民院議員を務めた[ 3] [ 5] 。ただ、後年は財政的に困窮しており、初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズ の口添えで実入りのいいバルバドス総督 に就任している[ 5] 。彼はいとこから上記の準男爵位を継承している[ 2] 。
その息子である3代子爵ジョージ (1725?–1758) は英国陸軍 軍人としてフレンチ・インディアン戦争 に従軍し、准将 まで昇進した武人である[ 3] [ 6] 。彼は同戦争中に北米大陸 ・ジョージ湖 付近でフランス軍と接敵した際に心臓を撃ち抜かれて戦死を遂げている[ 注釈 2] [ 6] 。そのため、爵位はジョージの弟リチャードがこれを継承した。
4代子爵リチャード (1726-1799) は王立海軍 の提督として高名であり、フランス革命戦争 下における最大の海戦である「栄光の6月1日 」の指揮官を務めている[ 7] [ 8] 。彼はジブラルタル包囲戦 終結後の1782年にグレートブリテン貴族 としてノッティンガム州ランガーのハウ子爵 (Viscount Howe, of Langar in the County of Nottingham) に叙された[ 3] [ 7] [ 9] 。
その後彼ピット 内閣下の海軍大臣を務めたのち、退任時の1788年 に多年の功によってハウ伯爵 (Earl Howe) 及びノッティンガム州ランガーのハウ男爵 (Baron Howe, of Langar in the County of Nottingham) に昇叙している[ 3] [ 7] 。このうち、ハウ男爵位には彼の娘とその直系男系男子への継承を認める特別規定が定められていた[ 10] 。
彼には男子がいなかったため、男系継承を要求するハウ伯爵位とランガーのハウ子爵位は廃絶した[ 3] 。一方でアイルランド貴族 爵位のハウ子爵及びグレノーリー男爵は末弟のウィリアム が承継し、女系継承可能なハウ男爵は初代伯の娘であるソフィア・シャーロットが相続した[ 3] 。
第2代女男爵ソフィア・シャーロット(1762-1835) はペン・アシュトン・カーゾン と結婚したため、男爵位はカーゾン家によって承継されてゆき、現存する第2期のハウ伯爵叙爵につながる。
他方、ハウ子爵位を継いだ5代子爵ウィリアム (1729–1814) は英国陸軍の将軍であり、アメリカ独立戦争 時には在北米英軍総司令官 (英語版 ) を務めた人物である[ 3] 。彼には嗣子がなかったため、同人の死をもってハウ子爵位及びグレノーリー男爵位は廃絶となった[ 3] [ 11] 。なお、この際にコンプトンの準男爵位も廃絶している[ 2] 。
カーゾン家(第2期)
5代伯フランシスとその息子エドワード(のちの6代伯)。戦艦ハウ にて。 パラム・パーク・ハウス伯爵家の旧邸宅。初代伯爵リチャードが祖父から継承した。 カーゾン家は代々ケドルストン荘園 (Kedleston estate) の地主を務めてきた一族で、ジョン・カーゾン (英語版 ) (1599?–1686) は、1636年 6月18日 にノヴァスコシアの準男爵位、1641年8月11日にイングランドの準男爵に叙されている[ 12] [ 13] 。
その子孫たる第4代準男爵サー・ナサニエル・カーゾン (英語版 ) (1676-1758) はトーリー に属して活動したが、ホイッグ の首魁ロバート・ウォルポール の解任動議には棄権した政治家である[ 14] 。その彼の次男アシェトン・カーゾン も父と同様にトーリー党の政治家として庶民院議員を務めたのち、1794年にグレートブリテン貴族 としてバッキンガム州ペンのカーゾン男爵 (Baron Curzon, of Penn in the County of Buckingham) [ 15] 、ついで1802年には連合王国貴族 爵位のバッキンガム州ペンのカーゾン子爵 (Viscount Curzon, of Penn in the County of Buckingham) に昇叙した[ 16] 。その初代子爵の一人息子ペン・アシェトン は第2代ハウ女男爵ソフィア・シャーロット・ハウと結婚したが、父に先立って亡くなったため、爵位を襲うことはなかった。
そのため、夫妻の息子リチャード (1796-1870) は1820年 に祖父から爵位を継承し、1821年 には連合王国貴族としてハウ伯爵 (Earl Howe) に叙されて母方の祖父の伯爵位を再興した。これが現存するハウ伯爵家の始まりとなった[ 17] 。
また同年に彼は勅許を得てカーゾン=ハウと改姓するとともに[ 18] 、1835年 には母よりハウ男爵位を相続した[ 1] 。
2代伯爵ジョージ(1821-1876) は襲爵前にサウスレスターシャー選挙区 (英語版 ) 選出の保守党 庶民院議員を務めた[ 19] 。彼には男子がいなかったため、弟のリチャードが3代伯爵位を継承した。
その長男である4代伯リチャード(1861-1929) は保守党政権期に侍従たる議員 (英語版 ) やアレクサンドラ王妃 付宮内長官職を歴任している[ 20] [ 21] 。
5代伯フランシス(1884-1964) は海軍予備軍人である傍ら、レーサー としても活動した[ 22] 。彼は1931年度ル・マン24時間レース に参加して、僚友ティム・バーキン (英語版 ) とともに優勝を果たしている[ 22] [ 23] 。
その息子の6代伯エドワード(1908-1984) には4人の娘がいたが男子がなかったため、1984年に彼が亡くなると爵位は又いとこのフレデリックに継承された[ 1] 。
現当主である7代伯フレデリック(1951-) は保守党の政治家として活動しており、1999年 の貴族院法 制定以降も貴族院 に籍を置く92人の世襲貴族 の一人である[ 1] 。
なお、ハウ伯爵家の歴代当主は上述のとおり第4代準男爵サー・ナサニエル・カーゾン (英語版 ) の子孫であるため、現在は親族のスカーズデール子爵家 が保持するイングランド準男爵位(ダービー州におけるケドルストンの)準男爵位 およびアイルランド準男爵位(ダービー州におけるケドルストンの)準男爵位 の潜在的な継承権者でもある。
カーゾン家及び爵位にかかる現在のモットー は『カーゾンのものはカーゾンによこせ (Let Curzon Holde what Curzon Helde) 』[ 1] 。
一族の邸宅は、 バッキンガムシャー州 ペンストリート近郊のペンハウス(Penn House) [ 1] 。
現当主の保有爵位
現当主である第7代ハウ伯爵フレデリック・リチャード・ペン・カーゾン (英語版 ) は以下の爵位を有する[ 1] 。
第7代ハウ伯爵 (7th Earl Howe) (1821年 7月15日 の勅許状による連合王国貴族 爵位)
第8代バッキンガム州ペンのカーゾン子爵 (8th Viscount Curzon, of Penn in the County of Buckingham) (1802年 2月27日 の勅許状による連合王国貴族爵位)
第9代ノッティンガム州ランガーのハウ男爵 (9th Baron Howe, of Langar in the County of Nottingham) (1788年 8月19日 の勅許状によるグレートブリテン貴族 爵位)
第8代バッキンガム州ペンのカーゾン男爵 (8th Baron Curzon, of Penn in the County of Buckingham) (1794年 8月13日 の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
ハウ家
ハウ子爵(1701年)
ハウ伯爵(第1期;1788年)
初代ハウ子爵リチャード・ハウ (1726–1799)(1799年ハウ伯爵・ランガーのハウ子爵位廃絶 )
ハウ子爵(1701年)
第5代ハウ子爵ウィリアム・ハウ (1729–1814)(1814年ハウ子爵位廃絶 )
ハウ男爵(1788年)
カーゾン家
カーゾン子爵(1802年)
ハウ伯爵(第2期;1821年)
爵位の推定相続人 は、現当主の息子であるカーゾン子爵(儀礼称号 )トマス・エドワード・ペン・カーゾン(1994-)。
脚注
注釈
^ サー・ジョン・ハウ の次男ジョン・グロバム の息子にあたる。ハウ準男爵位は彼の伯父リチャード・グロバム の系統が継承していたため、スクループ自身は準男爵位を保持していない。
^ 3代子爵の戦死直後にカリヨンの戦い が生じたが、英国側の大敗に終わっている。
出典
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^ a b c Cokayne, George Edward , ed. (1903). The Complete Baronetage (1649–1664) (英語). Vol. 3. Exeter: William Pollard & Co. pp. 123–124.
^ a b c d e f g h i Heraldic Media Limited. “Howe, Viscount (I, 1701 - 1814) ” (英語). www.cracroftspeerage.co.uk . Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage . 2020年10月26日時点のオリジナル よりアーカイブ。2021年6月1日 閲覧。
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^ Heathcote, Tony (2002). The British Admirals of the Fleet 1734 – 1995 . Pen & Sword , p=125
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^ a b Pugh, Martin. "Howe, Francis Richard Henry Penn Curzon, fifth Earl Howe". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/97999 。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 。)
^ GP企画センター(編集) 著、ジョー・ホンダ(写真) 編『ルマン―伝統と日本チームの戦い』グランプリ出版 、東京都 千代田区 、1995年7月1日、223頁。ISBN 4876871612 。
関連項目