アシュトン・カーゾン (初代カーゾン子爵)初代カーゾン子爵アシュトン・カーゾン(英語: Assheton Curzon, 1st Viscount Curzon、1730年2月2日 – 1820年3月21日)は、イギリスの政治家。1754年から1780年までと1792年から1794年まで庶民院議員を務めた[1]。 生涯第4代準男爵サー・ナサニエル・カーゾンと妻メアリー(Mary、旧姓アシュトン(Assheton)、第2代準男爵サー・ラルフ・アシュトンの娘)の次男として、1730年2月2日に生まれ、セント・ジョージ・ハノーヴァー・スクエアで洗礼を受けた[2]。1740年から1746年までウェストミンスター・スクールで教育を受けた後[1]、1747年2月6日にオックスフォード大学ブレーズノーズ・カレッジに入学、1754年7月2日にD.C.L.の学位を修得した[3]。 1754年イギリス総選挙ではカーゾン家が影響力を有するクリセロー選挙区から出馬して、無投票で当選した[4]。クリセロー選挙区における102件の市民借地権のうち、リスター家(Lister)とカーゾン家が共同で過半数となる53件を所有していたため、同選挙区は2家の懐中選挙区であり、以降1774年イギリス総選挙までカーゾンは無投票での再選を繰り返した[4]。1761年イギリス総選挙では兄ナサニエルがダービーシャー選挙区でカーゾンを推薦しようとしたが、カーゾンは辞退している[1]。しかし、1780年イギリス総選挙ではリスター家のトマス・リスターが裏切り、2家が共同で所有する市民借地権の投票を拒否したため、市民借地権102件のうち53件が投票できず、残り49件のうちリスター家が30件を所有したため、アシュトンは17票しか得られず、33票と31票を得たリスター家の候補2名に敗れた[4]。1784年イギリス総選挙でも同様の結果になったが[4]、2家は1790年イギリス総選挙までに和解、カーゾンの長男ペン・アシュトンは1790年の総選挙で当選した[5]。1792年にペン・アシュトンがレスターシャー選挙区の補欠選挙に出馬してクリセロー選挙区の議員を辞任すると、カーゾンは再び出馬して無投票で当選、以降1794年に叙爵されるまで議員を務めた[5]。 議会ではトーリー党に所属し、グレンヴィル内閣期の1763年秋にチャールズ・ジェンキンソンから政府支持であると評され、第1次ロッキンガム侯爵内閣期(1765年 – 1766年)に印紙法廃止法案に反対票を投じ、チャタム伯爵内閣期(1766年 – 1768年)にも野党に同調して投票した[1]。ノース内閣期(1770年 – 1782年)では『ザ・パブリック・レジャー』紙が1779年に「与党側で投票するものの、内閣大臣に賛成できないときは庶民院を退出することもある」と評しており、1780年には商務庁廃止の採決で野党に同調して投票した[1]。2度目の議員期(1792年 – 1794年)では投票と演説の記録がなかった[6]。 第1次小ピット内閣期(1783年 – 1801年)の1794年8月13日にグレートブリテン貴族であるバッキンガムシャーにおけるペンのカーゾン男爵に叙された[2][7]。アディントン内閣期(1801年 – 1804年)に首相ヘンリー・アディントンにより、同じく男爵位を所有している兄ナサニエルを差し置いて[6]1802年2月27日に連合王国貴族であるバッキンガムシャーにおけるペンのカーゾン子爵に叙された[2][8]。パーシヴァル内閣期(1809年 – 1812年)に首相スペンサー・パーシヴァルに対し伯爵位への叙爵を申請したが、これは失敗に終わっている[6]。 1820年3月21日に死去、息子ペン・アシュトンに先立たれたため孫リチャードが爵位を継承した[2][9]。遺産は12万ポンドに満たないという金額だった[2][6]。 家族1756年2月23日、エスター・ハンマー(Esther Hanmer、1764年7月21日没、ウィリアム・ハンマーの娘)と結婚[2]、1男2女をもうけた[9]。
1766年2月6日、ドロシー・グローヴナー(Dorothy Grosvenor、1774年2月25日没、第6代準男爵サー・ロバート・グローヴナーの娘)と再婚[2]、2男2女をもうけた[6]。
1777年4月17日、アンナ・マーガレッタ・トレコシック(Anna Margaretta Trecothick、旧姓メレディス(Meredith)、1804年6月13日没、バーロー・トレコシックの未亡人、アモス・メレディスの娘)と再婚したが[2]、2人の間に子供はいなかった[6]。 出典
外部リンク
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