ハイデルベルク中央駅 (ハイデルベルクちゅうおうえき、ドイツ語 : Heidelberg Hauptbahnhof )は、2009年時点で1日約42,000人の乗客がある、ドイツ ・バーデン=ヴュルテンベルク州 でも大きな鉄道駅 である。ドイツの鉄道駅の分類 で、7つあるカテゴリのうちの上から2番目にあたるカテゴリ2に分類されている。最初の駅は1840年にハイデルベルク の旧市街の近くに頭端式の駅として建設された。1862年に一部を改造して通過式の駅としたが、それに伴う都市問題と、拡張の困難さから、20世紀初頭におよそ1 km 西に移転して新たな通過式の駅を建設する決定がなされた。2回の世界大戦によって計画は遅延し、ハイデルベルクの駅の移転完了には50年余りを要することになった。新しい駅は1955年に開業し、「ドイツ連邦鉄道 でもっとも美しく、建築的に興味深い駅舎」とされた[ 1] 。1972年にバーデン=ヴュルテンベルク州の特別重要文化財として登録された。
歴史
旧駅 1840年 - 1955年
ハイデルベルクの旧駅を出発する列車、1840年
1840年9月12日に、マンハイム からのバーデン本線 の最初の区間の終点として、ハイデルベルクに当初の頭端式の駅が開業した。頭端式の形態が選ばれたのは、駅をできるだけ町に近づけられるようにするためであった。駅はこんにちのポスト通りとバーンホーフ通りの間に位置し、駅前広場はローアバッハ通りに面していた[ 2] 。建築家のフリードリヒ・アイゼンローア (ドイツ語版 ) が設計した駅は、装飾によってロマン主義 を添えられた、いくつかのシンプルな新古典主義 の建物で構成されていた[ 3] 。主な駅舎は市街地側に建てられており、赤いネッカー砂岩 とスレート で作られた屋根が対照をなしていた。2径間のトレインシェッド が合計4線の番線を覆い、全長75 m 、幅28 mで当時としては大変大きかった。このトレインシェッドは木造であった。大きな径間を実現するために、アイゼンローアは後に鋼製構造物に用いられるのと似たような構造を採用した。駅から線路が出ていくところは両脇に2つの塔が建てられており、高架水槽として利用されていた。駅構内には6か所の分岐器 と15か所の転車台 が設置されており、転車台では軽い車両を載せて手作業で回転させることができた。当初の時刻表によれば、1日に4本の列車がマンハイムへ運転されており、所要時間は35分から40分であった[ 4] 。
1843年にハイデルベルクからカールスルーエ までの路線が開通した。1846年にフランクフルト・アム・マイン までマイン-ネッカー鉄道 が開通し、1848年には2番目の駅が「建築的に模範的な形態で」[ 5] 開設され、既存の駅の施設に統合された。この駅もアイゼンローアによって設計され、既存の駅施設に対しておおむね対称的な形で設計され、また将来的に北側へ拡張の余地があるように建設された。バーデン大公国邦有鉄道 が1,600 mm の広軌 であったのに対してマイン-ネッカー鉄道は標準軌 で開通したため、バーデン大公国邦有鉄道が1855年4月に改軌 するまでの間、駅の中央付近に設けられた貨物上屋 においてすべての貨物を積み替えなければならなかった。2つの主な駅舎を連絡してアーケード が設けられており、その中央部分が駅への主要な入口として機能していた。これに加えて、2か所に三線軌条 が分岐器を通って通じていた扇形庫 と、トラバーサー によって通じていた車庫があった[ 6] 。駅では1854年から、大学の書店であるカール・シュミットの営業による駅構内書店があり、これはドイツでも初期のもので[ 7] 、100年後までその基本的な形態を保持していた。
1862年にオーデンヴァルト線 が開通した際に駅は通過式の配線になり、またこの機会に南側へわずかに拡張された。1873年にはハイデルベルクはシュヴェツィンゲンからシュパイアーへの支線 (ドイツ語版 ) のターミナルともなった。1864年には駅の容量を救済するためにマンハイムへの路線とカールスルーエへの路線を結ぶ連絡線 が使用を開始した。また1873年にはレーマー通りの西、マンハイムへの路線に沿って、新しい貨物駅と操車場 が設置された[ 8] 。
駅の移転 1902年 - 1955年
20世紀初頭には、駅の周りにおいて、北側でベルクハイム (ドイツ語版 ) 、南側でこんにちのヴェストシュタット (ドイツ語版 ) が開発され、鉄道施設の拡張を妨げることになった。1902年の時点で平日はハイデルベルクから340本の列車が運転されていた[ 9] 。1954年/1955年のダイヤでは、400本以上になっていた。駅の容量は限界に達していたため、重要な長距離列車はハイデルベルクを迂回するようになっていた[ 10] 。
同時に、駅は都市設計 に影響を与えるようになっていた。1862年のオーデンヴァルト線建設以降、道路交通が増加してきて、こんにちのアデナウアー広場のところにあったローアバッハ通りとの踏切 は特に交通の妨げとなっていた。1949年末の時点で、1日3 - 4時間は閉じるこの踏切を10,800台の車が通行していた[ 11] 。ここには歩行者用の地下道が1893年に開設されていた。ハイデルベルク市電 (ドイツ語版 ) の路線は踏切の両側で途切れており、市電の乗客は踏切を徒歩で横断しなければならなかった。この踏切が、駅の移転の大きな理由の一つとなった[ 12] 。
1873年には駅の移転の検討が行われていた。しかしこれは、駅近傍で営業していたホテル業者に反対された[ 6] 。1892年には木造の駅舎の1棟が火災で焼け落ちたが、野次馬の中には駅全体が焼けてしまえと思っていた人もいたであろう[ 13] 。1895年にマイン-ネッカー鉄道が国有化されたことで、1890年代の当初の計画を促進することになった。当初の町の側の希望は、駅を市街中心部にできるだけ近くするために、現在地で駅を高架化することであった。1901年にハイデルベルクの市民委員会は、現在地からおよそ1 km西に新しい通過式配線の駅を建設するというバーデン大公国邦有鉄道からの提案を承認した[ 14] 。1908年のバーデン大公国邦有鉄道による最初の設計では、20の番線を持った通過式配線の駅となっていた[ 15] 。また線路別運転が行われることになっていた。総建設費は4000万ドイツマルク と見積もられた[ 14] 。
1902年の起工式の後、全長約3 km、幅最大250 m、4 - 5 mの深さの掘割の中に旅客駅を建設する工事が開始された。掘り出された土砂は、操車場と貨物駅を高い位置に持ち上げる盛土のために利用された。旅客駅の南西側に位置していた操車場は、1914年3月に運用を開始した。1910年10月に、およそ15か月にわたる掘削工事を終えて全長約2,500 mのケーニヒシュトゥールトンネルが完成し、オーデンヴァルト線を新しい駅に接続した。第一次世界大戦 の勃発に伴い工事は中断された。この時点で、オーデンヴァルト線の貨物列車はケーニヒシュトゥールトンネルを通って走行しており、ハイデルベルク市街地の踏切の問題を幾分緩和していた[ 16] 。
大戦後は、経済的な事情から当初は建設計画は中止されていた。1926年から、計画されていた駅とヴィープリンゲン (ドイツ語版 ) の間に信号場 と車両基地の建設が行われ、1928年に運用を開始した。1932年から1936年にかけて、ハイデルベルク・アルトシュタット駅 (ドイツ語版 ) (別名カールストーア駅)がケーニヒシュトゥールトンネルの東側入口付近に再建された。1933年には、見通しのつく限りの期間では、駅の建設計画続行に必要な資金を負担できないと鉄道管理当局が決定した[ 17] 。
ナチス・ドイツ の時代には、1929年から1945年までハイデルベルク市長を務めたカール・ナインハウス (ドイツ語版 ) が駅移転計画において重要人物となった[ 18] 。ナインハウスは都心部の包括的な再設計を行い、これには鉄道施設の一掃が必要であった。1936年に市議会は建築家のパウル・ボーナッツ (ドイツ語版 ) に設計を依頼し、2年後にはゲルマン・ベステルマイヤー (ドイツ語版 ) 、ハンス・フレーゼ (ドイツ語版 ) 、コンスタンティ・グートショウ (ドイツ語版 ) といった人物も参加することになった。1938年にナインハウスはアルベルト・シュペーア と連絡を取った。シュペーアの助けを得て、アドルフ・ヒトラー は1941年5月にハイデルベルクを「再設計都市」(Neugestaltungsstadt ) に指定する命令に署名した。このようにして計画は促進され、第二次世界大戦 が終結次第建設に取り掛かれるはずであった[ 19] 。1908年から1914年までと、1926年から1939年までの建設期間に、新しいハイデルベルク中央駅の設備のおよそ80パーセントができあがっていた[ 15] 。
計画は1943年に第二次世界大戦によって中断されたが、その中でフレーゼが着想したこととして、かつての駅の地区を貫いて新駅と都心部を結ぶ大通りがある。この道路は東側にハイデルベルク城 を、西側に新しい駅の駅舎を望むことになる。駅舎は大通りに対して垂直に、そして線路に対しては斜めに建てられることになる[ 20] 。
第二次世界大戦中、駅はわずかな部分のみが被害を受けた。特に被害を受けたのは工場と貨物駅の部分であった。1947年から駅建設の継続に関して広く討論が行われた。戦争終結時点で、1952年時点での通貨価値に換算して7000万ドイツマルクの投資が必要とされる計画されていた設備のうち、80パーセントが完成していた。計画の見直しにより、番線の数は20から8に減らされ、これにより残りの建設費用が1200万ドイツマルクに削減された。バーデン=ヴュルテンベルク州政府は250万ドイツマルクを借り入れてこの費用を負担した[ 21] 。1949年に発足したドイツ連邦鉄道 (西ドイツ国鉄)にとって最初の大規模プロジェクトとして、工事再開の鍬入れが1950年9月12日に行われた。1914年以来ほとんど使われていなかった掘割は、計画されていた電化のための余地を確保するためにさらに50 cm 掘り下げられた。
1955年の新駅
新駅のメインホール(1957年)
新駅のメインホール(2008年)
エスカレーターとエレベーターの設置された後の跨線橋ホール、2008年
1955年5月5日に、新しいハイデルベルク中央駅が連邦大統領 テオドール・ホイス 臨席により開業した。かつてハイデルベルクに数年間住んでいたことのある大統領は、ブルッフザール からの特別列車でハイデルベルクに到着した。実際の駅の営業は5月7日から8日にかけての夜から開始された。これは、旧駅まで暫定的に結んでいた2か所の築堤を撤去する必要があったためである。この築堤の下に、新駅への線路が既に建設されていた[ 22] 。営業開始初日には、分岐器に関する技術的な問題と、人員が新しい設備に慣れていなかったことにより、初期問題が発生した[ 23] 。新しいダイヤでは、それまでハイデルベルクの駅の容量問題によりハイデルベルクを迂回していた18本の長距離列車がハイデルベルクに停車するようになった[ 24] 。
新しい駅舎はドイツ連邦鉄道の重役、ヘルムート・コンラディ (Helmuth Conradi ) が設計した。彼は1920年代にパウル・シュミッテナー (ドイツ語版 ) やパウル・ボーナッツから建築を学び、シュトゥットガルト学派 (ドイツ語版 ) の影響を受けた[ 25] 。縦のガラスの壁を持つ駅舎は、ナチス時代にハンス・フレーゼが設計したように、線路に対して50度の角度を付けて建てられた。長さ53 mの南側の壁には、幅16 m、高さ12 mのホールの部分に[ 26] 、カール・ヨーゼフ・フーバーによる「ヘリオスと太陽の戦車」のズグラッフィート がある[ 27] 。線路に並行して2番目の建物があり、1階には小荷物および急行貨物の受付、待合室、レストラン、2階には連邦鉄道の管理事務所などが入っている。2つの建物の間の部分には両方につながる螺旋階段がある[ 28] 。駅舎から突き出して、全長91 m、幅20 mのプラットホームに通じる跨線橋ホールがある。このホールの屋根はプレストレスト・コンクリート によりカーブを描いた形で造られている。
1955年に開業した時点で、駅舎は「近づきづらいガラス箱」と批判を受けた[ 29] 。後に跨線橋ホールについては「建築上・運営上卓越している」と評価された[ 30] 。長いガラスのファサードはかつて鉄道の建物にはなかった「優雅さと明るさ」[ 31] を持ち、「1950年代の建築の理想: 透明・明るさ・雄大さ」に対応していると言われた。バーデン=ヴュルテンベルク州の歴史文化財事務所が2010年に発行した文献によれば、ガラスのファサードの新しさが、比較的強くネオクラシカルなコンクリートの屋根の支柱を備えた駅舎の垂直構造と対照をなしている[ 27] 。
中央継電連動信号扱所 は駅舎に収容されている。旧駅に10か所あった信号扱所を置き換え、信号扱手の数をそれまでの45人から7人に削減した[ 32] 。西側にはアメリカ陸軍のために別にプラットホームを備えた専用地区があった。小荷物と郵便物を列車に積み込むために、2本の荷物用地下道が掘られた。それまで一般的であったエレベーターに代えて、プラットホームへの接続には坂道が用いられた[ 33] 。西側から来てハイデルベルク終着となる列車のために、機関区のそばに12本の番線を持つ留置線と車体洗浄設備、車両工場が設けられた。さらなる到着列車のために駅の東側に4本の留置線が設けられた[ 34] 。
新しいハイデルベルク中央駅は1955年から完全に電化 されていたため、入換機関車 としては電気機関車 が使用されていた。最初にハイデルベルクに配置されたのはE69型 (ドイツ語版 ) で、1964年にE60型 (ドイツ語版 ) に置き換えられた。また1962年からはハイデルベルク機関区に初めて急行用の機関車としてE10型 が、そして近郊用電車としてET56型 (ドイツ語版 ) が配置された。ハイデルベルクへの蒸気機関車 の運行は1965年に終了し、石炭 の取り扱い施設も1968年に閉鎖された。1970年時点では入換機関車と電車のみがハイデルベルクに配置されていた。1989年5月に機関区は廃止となった[ 35] 。
1966年にシュヴェツィンゲンへの支線が廃止となった。1991年にはマンハイム-シュトゥットガルト高速線 が開業したが、同路線はマンハイムからシュトゥットガルトとカールスルーエを直線状に結ぶためにハイデルベルクを通らなかったため、多くの長距離列車がハイデルベルクに停車しなくなった。新しいハイデルベルク中央駅の開業40周年に際して、ハイデルベルクの新聞「ライン=ネッカー=ツァイトゥング (ドイツ語版 ) 」では、1955年時点での予想に反して、駅は国際鉄道輸送に不適合になってきているとした[ 36] 。2003年春にはバリアフリー のために、跨線橋ホールとプラットホームを結ぶエレベーターが設置された。長距離列車用のプラットホームについては、1987年時点でエスカレーターが設置されていた[ 37] 。2003年12月には、ハイデルベルクはラインネッカーSバーン の拠点となった。ドイツ鉄道の南西地区の信号扱いはカールスルーエ に集約されたことから、中央信号扱所は2006年に機能を停止した。信号扱所の建物はそのまま存置されている[ 38] 。
1997年7月に郵便物の鉄道輸送が廃止になったことから、駅の南側、モンペリエ橋の近くにあった鉄道用の郵便局も廃止となった。同じく1997年には、マンハイム操車場 (ドイツ語版 ) に機能を譲って、ハイデルベルクの操車場と貨物駅は廃止となった。もともと1日2,500両を扱えるように設計されていたのだが、最後の頃は1日400 - 500両程度に過ぎなかった[ 39] 。貨物駅と機関区の跡地には、新しい街区としてバーンシュタット (ドイツ語版 ) (鉄道の町という意味である)が設定され、最初の建物の建設が2010年に開始された。バーンシュタットの開発を促進するため、2011年1月から跨線橋ホールを南側へ伸ばす工事が行われている[ 40] 。
旧駅跡地の利用
1955年5月にハイデルベルク中央駅が移転したことで、24ヘクタール の鉄道用地が空いた。市議会はナチス時代からの計画を見直して1950年代初期に基本計画を策定した[ 41] 。計画には、70 m幅に及ぶ大規模な東西方向の連絡道路、クーアフュルステンアンラーゲが含まれていた。空いた用地のおよそ60パーセントが道路と広場の建設に用いられた。カール・ナインハウスは、1945年に市長を解任されてから7年後に再び市長に選出され、1955年に「新しい道路が短期間に多くの店の並ぶ活気のある場所となる」という期待を述べた。そして「町の特徴を一目で表す、名刺のようなものとなるだろう」とした[ 42] 。
1956年7月に、クーアフュルステンアンラーゲを通って新しい駅まで路面電車が開通した。新しい道路の建設はゆっくりと進み、特にハイデルベルク地方裁判所 (ドイツ語版 ) を含む公的機関の建物が並んでいった。1960年代初めに、かつての中央駅のあった場所にメングラーバウ (ドイツ語版 ) という建物が建てられ、これはこんにちにおいてもハイデルベルクにおいて唯一の高層住宅である。新しい駅前広場はヴィリー・ブラント にちなんで名づけられたが、それに向かって1990年に化学同業協会のビルが建てられた。印刷機の会社、ハイデルベルク印刷機械 (ドイツ語版 ) の事務所および訓練センターのビルが2000年に、Sプリンティングホース (ドイツ語版 ) の彫像の前に建てられた[ 43] 。1993年5月からは、駅舎のすぐ北側に路面電車の停留所が設置され、ここにはオーバーライン鉄道 (ドイツ語版 ) の列車も発着する。このためにオーバーライン鉄道の線路がヴィープリンゲンへ向けて敷設され、中央駅において路面電車網と接続された[ 44] 。
クーアフュルステンアンラーゲの都市開発については、2010年には冷厳としたものだと評されている。店舗やカフェ、レストランなどが並ぶという期待は外れてしまった。交通量の多い通りは歩行者には魅力がなかった[ 38] 。地元紙「ライン=ネッカー=ツァイトゥング」は1995年に、駅は「西側に離れて少し遠すぎ、期待されたような強い引力がなかった」とした。期待されていた、ベルクハイムとヴェストシュタットの街区の統合は失敗し、クーアフュルステンアンラーゲに建てられた公的機関の建物は「とても味気ない」とされた[ 36] 。2011年にはクーアフュルステンアンラーゲ沿いの公的機関の建物の解体が始まった。今後これらの建物は住宅で置き換えられることになっており、これらの地区がもっと魅力的になるようにしようとしている。
運行
長距離
ハイデルベルク中央駅に停車しているユーロシティ
ハイデルベルク中央駅は主要な経済活動地で人気のある観光地でもあるハイデルベルクにあり、ドイツ鉄道の長距離列車網の一部となっている。ICE 、インターシティ 、ユーロシティ などの列車が停車する。
ラインネッカーSバーン
ラインネッカーSバーンS1系統のホンブルク(ザール)中央駅行き、425型 電車
ハイデルベルク中央駅は地域交通にとっても重要である。DBレギオ が2003年から運転しているラインネッカーSバーンの主要な拠点となっている。
系統
経路
S1
ホンブルク(ザール) - カイザースラウテルン - ノイシュタット(ヴァインシュトラーセ) - ルートヴィヒスハーフェン(ライン) - マンハイム - ハイデルベルク - ネッカーゲミュント - エーバーバッハ - モースバッハ(バーデン) - オスターブルケン
S2
カイザースラウテルン - ノイシュタット(ヴァインシュトラーセ) - ルートヴィヒスハーフェン(ライン) - マンハイム - ハイデルベルク - ネッカーゲミュント - エーバーバッハ - (モースバッハ(バーデン))
S3
ゲルマースハイム - シュパイアー - ルートヴィヒスハーフェン(ライン) - マンハイム - ヴィースロッホ=ヴァルドルフ - ブルッフザール - カールスルーエ
S4
ゲルマースハイム - シュパイアー - ルートヴィヒスハーフェン(ライン) - マンハイム - ハイデルベルク - ヴィースロッホ=ヴァルドルフ - ブルッフザール
S5
ハイデルベルク - ネッカーゲミュント - メッケスハイム - ジンスハイム(エルゼンツ) - エッピンゲン
S51
(マンハイム) - ハイデルベルク - アーグラスターハウゼン
その他の近郊交通
マイン-ネッカー線経由フランクフルト・アム・マイン中央駅行きレギオナルバーン、ボンバルディア・トランスポーテーション のTRAXX 牽引
系統
経路
運転間隔
レギオエクスプレス
ハイデルベルク - ブルッフザール - ミュールアッカー - ファイヒンゲン(エンツ) - ビーティッヒハイム=ビッシンゲン - シュトゥットガルト
2時間おき
レギオエクスプレス
マンハイム - ハイデルベルク - ジンスハイム(エルゼンツ)/モースバッハ-ネッカーエルツ - バート・フリードリヒスハル=ヤークストフェルト - ハイルブロン
1時間おき
レギオナルバーン
フランクフルト・アム・マイン - ダルムシュタット - ベンスハイム - ヘッピンヘイム(ベルクシュトラーセ) - ヴァインハイム(ベルクシュトラーセ) - マンハイム=フリードリヒスフェルト - ハイデルベルク
1時間おき
脚注
^ Manfred Berger: Historische Bahnhofsbauten. (Band III: Bayern, Baden, Württemberg, Pfalz, Nassau Hessen). Transpress, Berlin 1988, ISBN 3-344-00267-8 , S. 97.
^ 旧駅の位置: 北緯49度24分27.29秒 東経8度41分31.77秒 / 北緯49.4075806度 東経8.6921583度 / 49.4075806; 8.6921583 (旧ハイデルベルク駅 )
^ Beschreibung bei Berger, Bahnhofsbauten, S. 93.
^ Bundesbahndirektion Karlsruhe, 115 Jahre , S. 15.
^ BergerのBahnhofsbauten , S. 95.の説明による
^ a b Berger, Bahnhofsbauten , S. 96.
^ Kaiser, 50 Jahre , S. 27.
^ Kaiser, 50 Jahre , S. 24.
^ Kaiser, 50 Jahre , S. 29.
^ Bundesbahndirektion Karlsruhe, 115 Jahre , S. 18f.
^ Zahlenangeben bei Kaiser, 50 Jahre , S. 44.
^ Kaiser, 50 Jahre , S. 22.
^ Albert Kuntzemüller: Der neue Hauptbahnhof Heidelberg. In: Badische Heimat. Mein Heimatland. 4/1959 (39), ISSN 0930-7001 , S. 362–367, hier S. 363.
^ a b Kaiser, 50 Jahre , S. 29.
^ a b Günther Lübbeke (1952). “Großflächige Eisenbahnplanung im Raume Mannheim–Ludwigshafen–Heidelberg”. Eisenbahntechnische Rundschau 1 (4): 138–144. ISSN 0013-2845 .
^ Kaiser, 50 Jahre , S. 29ff.
^ Kaiser, 50 Jahre , S. 32f.
^ この評価は: Meinholf Lurz: Erweiterung und Neugestaltung der Heidelberger Stadtmitte. (Neue Hefte zur Stadtentwicklung und Stadtgeschichte. Band 1) Brausdruck, Heidelberg 1978, ISBN 3-921524-99-7 , S. 30. による
^ Lurz, Erweiterung , S. 21.
^ Lurz, Erweiterung , S. 42f.
^ Zahlenangaben bei Kaiser, 50 Jahre , S. 51.
^ Bundesbahndirektion, 115 Jahre , S. 23f. Siehe auch Gleisplan von 1955 (Abgerufen am 31. Januar 2011).
^ Kaiser, 50 Jahre , S. 69.
^ Kaiser, 50 Jahre , S. 100f.
^ Roland Feitenhansl: Avantgarde gestern und heute. Bahnhofsbauten der 1950er Jahre in Baden-Württemberg. In: Denkmalpflege in Baden-Württemberg. Nachrichtenblatt der Landesdenkmalpflege. Archived 2014年5月13日, at the Wayback Machine . (PDF, 6,5 MB) 3/2010 (39) ISSN 0342-0027 , S. 134−140, hier S. 135f.
^ Berger, Bahnhofsbauten , S. 97.
^ a b Feitenhansl, Avantgarde , S. 136.
^ Bundesbahndirektion, 115 Jahre , S. 31.
^ Zitiert bei Feitenhansl, Avantgarde , S. 136.
^ Mihály Kubinszky: Bahnhöfe Europas. Ihre Geschichte, Kunst und Technik. Franckh, Stuttgart 1969, S. 150
^ Martin Schack: Bauwerk von klarer Kühnheit. Der Heidelberger Hauptbahnhof als Entwicklungsschritt im Bauen der Eisenbahn. In: Kaiser, 50 Jahre , S. 128–134, hier S. 129.
^ Bundesbahndirektion, 115 Jahre , S. 34.
^ Schack, Bauwerk , S. 128.
^ Bundesbahndirektion, 115 Jahre , S. 25.
^ Kaiser, 50 Jahre , S. 78, 83.
^ a b Dieter Haas: Würde man diesen Bahnhof heute wieder so bauen? In: Rhein-Neckar-Zeitung, 5. Mai 1995, S. 3.
^ Kaiser, 50 Jahre , S. 77, 138.
^ a b Feitenhansl, Avantgarde , S. 137.
^ Kaiser, 50 Jahre , S. 83.
^ Götz Münstermann: „Im Prinzip soll man einfach geradeaus weiterlaufen" In: Rhein-Neckar-Zeitung, 13. Januar 2011 (Abgerufen am 1. Februar 2011).
^ Lurz, Erweiterung , S. 66f.
^ Carl Neinhaus: Bahnhofneubau und Stadtentwicklung. In: Bundesbahndirektion Karlsruhe, 115 Jahre , S. 40–46, hier S. 40.
^ Kaiser, 50 Jahre , S. 75f.
^ Frank Muth: Straßenbahnen in Heidelberg. 100 Jahre »Blau-Weiße« in der Neckarstadt. GeraMond, München 2003, ISBN 3-7654-7197-6 , S. 114.
参考文献
Josef Kaiser: 50 Jahre neuer Heidelberger Hauptbahnhof. Von den Anfängen bis zum modernsten Bahnhof Deutschlands. Pro Message, Ludwigshafen 2005, ISBN 3-934845-25-8 .
Pressedienst der Bundesbahndirektion Karlsruhe (Hrsg.): 115 Jahre Bahnhof Heidelberg 1840–1955. Festschrift zur Eröffnung des Heidelberger Hauptbahnhofs am 5. Mai 1955. Hüthig & Dreyer, Heidelberg 1955.
外部リンク