ノート:牧野成定降伏と和睦オタスケマンさんへ、 徳川家康はその後、天正12年(1584)の小牧・長久手合戦の後、豊臣秀吉の圧力に屈し天正14年10月30日上洛、秀吉に謁見し和睦した(『戦国時代の徳川氏』前掲書247~251頁)。しかしこれより秀吉に臣属することになり、後には本領の三河の地も手放すことになった。有力な側の傘下に入ること=降伏であるなら、家康は秀吉に降伏したことになってしまう。しかし家康は自らの情勢の不利を悟り、敢えて秀吉の和議の勧めに応じたのであり、籠城・徹底抗戦して敗北し降伏したわけではない。処罰もうけていない。つまり、和睦なのです。--故城一片之月 2007年3月24日 (土) 14:12 (UTC)
記事の冗長部分の整理の件このページも盛り沢山になり、項目によっては冗長で重いと思われる部分もできてしまいました。合戦記事などはページ分割で独立も検討しても良いかと考えてます。(本文は合戦概要のみ示せばよい。)--故城一片之月 2007年12月8日 (土) 17:01 (UTC)
徳川家康への帰属年牧野成定が徳川家康へ帰属したのは永禄8年だとご主張されている方がいらっしゃり、「寛政譜には、和睦の記述なし。永禄8年に既に徳川味方とあり。永禄9年は本領安堵の件のみ」とおっしゃっていますが、ご提示の近代デジタルライブラリ([1])を見ると、永禄8年には家康が酒井忠次・石川家成を(牧野成定に)使わして味方に属するように言ったので、永禄9年に(成定が)岡崎へ行って(家康と)対面し、9月に本領安堵の版物を貰ったと読めます。この記述では、永禄8年に帰属したとは言えず、帰属したのは9年と見るべきと思われます。しかし、史料の解釈をどこの誰かもわからないウィキペディアの編集者間で議論しても埒が明かないでしょうから、ここは検証可能性に則り、信頼できる情報源たる二次資料に基づくべきと考えます。さしあたり、コトバンクの『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』には成定が家康に服属したのは永禄9年と書かれています。ネット上で確認できるのはこれぐらいのようなので、他に紙媒体をあたってみようと思いますが、もし永禄8年に帰属したとする二次資料が見つからず、他の方からも提示がなかった場合は、永禄8年に帰属したとする記述を除去、二次資料があった場合は(永禄9年服属とするものが少なくとも一つ存在しているので)両説の併記としたいと思います。--立花左近(会話) 2013年10月22日 (火) 12:49 (UTC) (一部訂正)と思ったのですが、 『牛窪密談記』、『牛窪記』、『改正三河後風土記』が永禄8年帰属としているとすれば、仮にその説を支持する二次資料がなかったとしても、除去までは行き過ぎと考え直しました。編集者の予断を交えず、永禄8年説、永禄9年説のそれぞれの出典を一次資料・二次資料を問わず明記して両説併記(永禄8年説は二次資料があるので除去しない。永禄9年説を支持する二次資料があった場合も、当然両説併記)。寛政譜の解釈が明確に書かれた二次資料があった場合にはそれを明記、なかった場合には寛政譜の編集者による訳や解釈は書かず、原文引用に留める(すなわち、永禄8年説・永禄9年説のどちらの根拠にも使わない)。というのが穏当ではないかと思います。--立花左近(会話) 2013年10月22日 (火) 13:52 (UTC) 調査の結果、以下を確認しました。
以上から、『講談社 日本人名大辞典』・『日本人名大事典』は成定の家康への服属を永禄9年とし、『戦国人名辞典』はいつ服属したかを明確には書かず、永禄9年の領地の安堵のみを書いています。すなわち、ここに挙げた二次資料では永禄9年に服属したとするものはあっても、永禄8年に服属したと書かれたものはありませんでした。よって、本記事から永禄9年に服属したとする記述を除去するのは適当ではありません。しかし、『改正三河後風土記』の記述は、確かに永禄8年に成定が家康に降参したと書かれていました。よって、『牛窪密談記』と共にこちらについても残しておいた方がいいでしょう。「和睦」については、明確にそれに類する記述がされた資料は今のところ見つかりませんし、本ノートの降伏と和睦節でご意見が書かれてありますが、このような解釈が明確に書かれた出典が提示されない限り、独自研究になりかねませんので、書かない方がいいでしょう。そのような方向で再編集したいと思いますが、いかがでしょうか。--立花左近(会話) 2013年10月23日 (水) 12:49 (UTC) まあ、よく調べたな。あんたにしては上出来だ。 東大史料編纂所データベースより 永祿5年9月29日(15620090290) 1条 【綱文】 今川氏真の兵、松平元康の属城三河御油を攻むるに依り、元康、赴援して、之を破る、尋で、同国牛久保城将牧野成定、元康に降る、 牧野文書 三川古文書 千賀家文書 三河物語 松平記 家忠日記増補 寛永諸家系図伝 [参考]武徳大成記 参考]武徳編年集成 [参考]朝野旧聞哀稿 [参考]落穂集 [参考]寛政重修諸家譜 永祿9年5月9日(15660050090) 1条 【綱文】 松平家康、松平康忠の所領を、牧野成定に頒ち与へ、康忠に替地を充行ふ、 永祿9年10月23日(15660100230) 1条 【綱文】 三河牛窪城将牧野成定卒す、尋で、松平家康、成定の子康成をして、家督を相続せしむ、 なお、長沢松平家に牛窪領を徳川家康が与えた給付状が存在し、牛窪周辺の牧野氏領土は、再編成、というか削減されている、つまり牧野氏が領土を維持したまま、家康に和睦した事実はない。 ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082717/112 松平家康判物 永禄9・ 5・9 家康(花押):岡蔵 松平上野守 今度牛窪へ被渡置候牛窪領之事 徳川恒孝氏所蔵文書 ttp://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/T38/1566/13-6-2/3/0011.tif 中日新聞に、牧野成定の件で、WIKIPEDIAと同じ記述(表現)が確認されている。和睦という表現。豊川市HPを確認したが、和睦という記述はないため、記者がWIKIから引用している。--180.197.207.137 2013年10月23日 (水) 14:06 (UTC)
報告 以上の議論結果を本文に反映させました。--立花左近(会話) 2013年11月28日 (木) 13:13 (UTC) |