ノート:一色氏久
本来は記事のノートに書くことではないのですが、栃木OCN可変IPの投稿者さまへ。まず最初に、(一色氏久での編集を見る限りでは、脚注使用など、Wikipediaでの編集方法についてお詳しいようですが)文中でリンクになっているところは、すべて当該項目、あるいはその説明等にリンクされていますので、是非お読み下さい。 さて、あなた様の「喜連川騒動」「一色氏久」の編集を読ませていただきました。(人違いであれば)大変心苦しく、恐縮ではあるのですが、現在ウィキペディア日本語版から無期限の投稿ブロックを受けている「利用者:喜連川一色家」が主張していた内容と、その多くが重なっているようです。さらに悪いことに、この利用者:喜連川一色家が常用しているプロバイダ・アクセスポイントがあなた様と同一であるという事も重なり、客観的に見てあなたの投稿が「利用者:喜連川一色家のブロック逃れによる投稿」との強い疑いを持つに到っております。前述した無期限ブロック中の利用者:喜連川一色家ですが、以前にも「筑波大学図書館職員」を騙ってのブロック逃れ投稿を行っており、そういった点で、「栃木OCN可変IP」での、喜連川騒動にまつわる記事への投稿は、利用者:喜連川一色家のブロック逃れであるという推定がなされてしまいます。(これは、利用者:喜連川一色家がいかに問題がある利用者だったか、ということを意味します。)もし、あなたが利用者:喜連川一色家でないのであれば、是非アカウントを取得し、編集していただくことを強くお勧めします。 なお、利用者:喜連川一色家が開設している、喜連川騒動に関するホームページも、当然ですがOCNです。余談ですが。--Doripoke 2007年10月3日 (水) 09:51 (UTC)
IPのかたに質問です投稿履歴などを見ると、 221.189.86.130=123.222.254.169=123.224.5.18 ということになるのでしょうか?--Ks aka 98 2007年10月3日 (水) 17:18 (UTC) Wikipediaの管理者の良識の期待します。何度もDoripokeさんに伝えたことです。当サイトが良識あるサイトとなることを期待しております。--123.224.5.18 2007年10月3日 (水) 17:25 (UTC)
追伸、私以外の方からの出典の明示など多くの方の協力があったはずです。--123.224.5.18 2007年10月3日 (水) 17:31 (UTC)
私の投稿です。しかし、喜連川一色家さん本人ではありません。彼の投稿ブロックは、彼のホームページで知ったことです。よって、彼には、出典要望のタグには答えられない立場のはずです。しかしながら、ブロックしておきながら出典を示せというWikipediaの態度にも、私には見受けられましたので、これは、不当であると私なりに協力させていただいた訳です。 また、喜連川騒動の記事も、Wikipedia版と喜連川一色さんのページを拝見させていただき、喜連川一色さんの意見に賛同しているのは、事実です。『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」は、『喜連川町史』近世・史料編の『喜連川家由来書』なるものは百姓であった、藩士の家に残された家伝書ですので基本的には、検証が必要であるのですが、彼等はそれをしなかったようですな。また、そのことは、喜連川一色家さんが、現在指摘していることをご存知ですか?当然、江戸や喜連川家本家の記録とも相違していることも確認しております。あの時代の町史は、あんなものなのですが、このような事件記録は、正しく検証して、『古河市史』のようなスタンスでなければならないのです。しかし、Dorikokeさんが、このことを隠滅しようとする人物の一人に感じてしまうのも事実で、できれば、そうでなくて、このことをDoripokeさんも理解していただければと思っています。歴史は、感情でなく、史料に忠実でなければならず、この編集にしても個々がその検証をして、意見交換しながら前編集者の記事を修正するなり補填するなりしながら、Wikipediaも編集されるべきかと思います。しかしながら、現在の管理システムでは、それを目標としていることは理解できるのですが、難しいようですな。--123.224.5.18 2007年10月3日 (水) 18:14 (UTC)
了承しました。喜連川一色家氏と思われる「喜連川騒動の一考察」のページには、その終文ページ部に、情報収集用の彼のメールアドレスが明示されておりますので、こちらから連絡をとってみます。多少時間はかかるかとおもいますが。--61.199.3.169 2007年10月4日 (木) 03:59 (UTC) 『及聞秘録』の事件記述の要約文の件、「喜連川騒動の一考察」のページ管理者の方から了承いただきました。「はじめに」の部分の最後にご意見をいただきました。ご確認ください。当ページ内ですでにリンクさせているようですので、そちらからご確認いただければと思います。--60.39.65.152 2007年10月4日 (木) 14:47 (UTC) アカウント作成のお願い
この方の確証のないなかでの暴言はなんとかなみませんか。これでは「2ちゃんねる」の投稿者の会話となんらかわりないように見受けられます。私が苦労する訳です。「喜連川騒動」におけるノート記録は全て読ませていただきましたが、喜連川一色家さんのブロックの理由が私には見当たりません。むしろ、このような不確定な暴言を書かれる方をブロックすることの方が、Wikipediaの信頼性向上につながるのではないですかな?暴言はなにも生まないとおもいますよ。非常に気分が悪くなりました。このような方が、いる以上私がアカウントをとっても喜連川一色家さんと同じ苦労をするだけと考えております。悪しからずご理解ください。暴言はくせですかね?それとも都合の悪い投稿者を排除する為のテクニックですかな。?--60.39.65.152 2007年10月4日 (木) 15:57 (UTC)
私の指摘する暴言とは、Doripokeさんの発言である「筑波大学職員を詐称しています。」についてです。「詐称している可能性があります。」とか「推定されます。」といった表現であれば醜くなく、暴言とはならないのですが、社会一般では、ネット上で確証が不可能(一般人では)ないことに「確定する発言」は暴言とされるのでは?私は、他人への暴言でも聞捨てられない口でして。悪しからず。 また、私に「アカウントをとっていただけないか?」と表現をかえ、暴言を平気で使える人格の方で管理者でもない方から進められた訳でもありますよ。当然、このような回答となりますな。 さらに、過去の「喜連川騒動の一考察」では、Wikipediaの住人と一部の管理者が喜連川一色家さんをいかにしてブロックしたかの内容が書かれていたのですがご存知でしたか? 私は読んでますので、アカウント取得は「くわばら」ですね。 私の方としては、出典の要請に協力しただけであり、正直「ここまで喜連川騒動に関係しそうな記事はブロックするか。」と驚きをかくせないのが正直なところでね。「出典の示されていない記事」が協力者を得て確かな出典のある記事となること、これが、「Wikipediaの方針と合わない」とされることは、どこか誤解があるようですな。私は、その辺の所は、Wikipediaをその目的、目標のあるところへ、正しく導こうという有志の方にお任せしているつもりです。すくなくとも、この記事の履歴を確認しますと、Dripokeさんが出典要請のタグを付けられておりますが、その出典をご自分で削除するような編集者?からは、この記事を守っていただきたいものです。--123.224.13.42 2007年10月5日 (金) 16:00 (UTC)
やはり、確証はなかったのですね。嘘をつかれたということです。あとは皆様におまかせします。--123.224.13.42 2007年10月5日 (金) 16:37 (UTC)
Doripokeさんは「以前に筑波大学職員を名乗ったIPユーザ」が「利用者:喜連川一色家さん」であったという指摘をしたのですが、それをご自分に対する「暴言」と受け止められた、ということは、IPさん、あなたは「以前に筑波大学職員を名乗ったIPユーザ」か「喜連川一色家さん」か、いずれかであることになります。そうでないならば、自分以外の二人の人間が同一人物である、という発言を自分に対する暴言であると言ってることになり、意味が通りません。 (もっとも、同一人物である、との発言が「暴言」と言えるかというと、それも疑問ですが)。 ということで率直に伺いますが、あなたは「以前に筑波大学職員を名乗ったIPユーザ」と「喜連川一色家さん」のどちらですか? ちなみにこの両者はいずれもブロック対象となったと思いますので、答えがどちらであっても、あなたの編集は許可されないことになってしまいますが、それでよろしいのでしょうか?--Horlicks 2007年10月5日 (金) 17:03 (UTC) どうも話が噛み合わないようで、困りますね。しばらく黙視しますので、ページ内の私の発言を冷静になられて見直していただけないでしょうか?。「詐称」とゆう言葉は、簡単には使える言葉ではないことを、お伝えしたはずです。おやすみなさい。--123.224.13.42 2007年10月5日 (金) 18:08 (UTC) 提案次のように考えました。 まず、「喜連川騒動における一考察」は、個人サイトに過ぎず、筆者が専門家ではないことも明らかです。そもそも特定の立場としての主張ではあって、それ自体は責めるつもりもないですが、学術的な研究が求める公平な態度で書かれたものではないと言えるでしょう。これは、喜連川一色家さんも認めていただけると思います。 ウィキペディアで執筆されている時は、じょじょに、かなり客観的な記述を心がけていただけるようになりました。ぼくは、地方史の分野は、学会などに属していないけれど、情熱を持って調べていらっしゃる方もいて、論文作法のようなものをウィキペディアの方針から身につけていただき、丁寧に資料をあたり、偽りや飛躍のない叙述によって、充実していくことができるのではないかと希望をもっていましたから、ずいぶんいろいろやりとりをさせていただきましたし、一緒に資料を探したりしてくれる他の執筆者の方も少なからずいらっしゃいました。残念ながら、そこで示された他の資料などを元にした加筆は、ウィキペディアではブロックに至ったためになされず、お忙しくてご覧になっていないのか、都合のいい記述が見つからなかったのか、サイトのほうでもあまり触れていらっしゃらないようです。 まあ、そのような経緯がありますので、喜連川一色家さんがブロック逃れをする可能性は否定できないにしても、人として、ぼくの目の前で別人を装うことはないと信じています。現在書き込みされているIPさんと、喜連川一色家さんを、別人として、考えます。 さて、IPさんが、喜連川一色家さんの意見に賛同することは自由ですが、氏のサイトを根拠にしてウィキペディアで執筆することはできません。繰り返しになりますが、中立的とは言えず、第三者の検証もなされていない、著名でも専門家でもない個人のサイトは、百科事典の情報源としては認められません。 あるいは様々な資料を通じて、同じ意見を持つに至ることはあるでしょう。この場合は、個別の事実関係については独自に一つ一つ資料を当たることとなります。ノート:喜連川騒動では、喜連川一色家さんのサイトで挙げられている資料も含め、ずいぶん細かく検証した上で、本文の記述を検討していることが窺えるかと思います。また、それによって組み立てられる仮説があるとしても、個々の事実からその仮説を組み立てるところまを含む二次資料がなければ、ウィキペディアにおいては独自研究とみなされます。査読付き論文があるかどうかは疑問ですが、紀要論文や卒論・修論、せめて自費出版という形ででも、検証可能な情報源を探す、あるいは、自ら書き、どこかに掲載されるという手順が必要となります。喜連川一色家さんも、その意見に賛同し、筑波大学の資料を確認してウィキペディアに書き込みをするような熱意ある人を得て、喜ばれていたことと思います(確認されてますよね?)。お二人で共に研究を進めれば、さぞはかどることでしょう。通信制の大学院などを利用すれば、専門家の指導を受けながら、2年ほどで論文としてまとめることも可能ではないかと考えます。喜連川町史の近世は、まだ刊行されていないようですが、お二人の研究がとりいれられるかもしれませんし、とりいれられずとも、刊行されれば、加筆・修正が期待されます。 というわけで、ウィキペディアにおいては「喜連川騒動における一考察」に由来する加筆・修正は、以後一切受け付けないということにしませんか? 改めて、元の資料を確認することで、みなが見逃していた何かが判明するかもしれませんし、個々の記述に対応した出典情報を加えていく作業は推奨されます。新たに関連する記述がある資料が見つかれば、それをもとに編集することは、当然に認められます。広域ブロックや無期限半保護は、できれば避けたいので。--Ks aka 98 2007年10月5日 (金) 18:36 (UTC)
段落ごとにお答えします。
管理者の一人であるKs aka 98さんの判断であればと、理解させていただきました。以後、特に私から今後Wikipediaへの投稿&編集を行う意思はなくなりましたので、以後ご安心ください。喜連川一色家さんとは、過去に先祖の件で情報交換をさせていただいた者で、彼のページは、メールアドレスを明示されたり、自己の素性を明確にした上で、真面目に正直に、研究されている姿が十分見受けられ、共鳴し当サイトの彼の記事を応援したつもりです。 最後に、本年6月に発刊された正式名『喜連川町史』第三巻史料編3近世、ですが本日私なりに、再度読み込んで見たのですが、また、新しい発見がありました。「第三章 喜連川家 第一節 由来と格式 一 家系と系譜」の最初に掲載されている足利聡氏により作成された「喜連川義氏家譜」が掲載されています。なんと、この最後の所に喜連川騒動の記述が記録されていたのです。内容を読みますと『聞及秘録』の喜連川騒動記述とほぼ同じ内容でした。江戸市ケ谷の月桂寺に問い合わせ、「喜連川家来の文書也」と書かれ、江戸から来た目付け2人の名が「御目付花房勘右衛門、三宅大兵衛を遺されてみせしめられ、事あらはる によってなり」と記録されています。五人の百姓家の家伝書とは明らかに相違する内容が掲載されているのです。喜連川家の系図は、3タイプほど掲載されていましたので、編纂担当者はきずかなかったようですね。多分、『聞及秘録』を知る、筑波大学の教授先生の意思かもしれませんな。(勿論、断定はできませんが。)よって、結果として、『喜連川町史』第三巻史料編3近世は、編纂委員会の意思とは別に密かに、かつ明確に、同町が過去に編纂した2誌 『喜連川町郷土史』の「狂える名君」と『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」の記述を、否定して同町最後の町史編纂を終了したことになるようですな。もし時間がありましたらすでに全国の図書館に配布されていますので、ご確認ください。 また、下で抗議と自己防衛に困窮されている方、身から出た錆とあきらめ下さい。投稿時の編集方法は、皆様の編集方法を真似れば簡単なことです。つまらぬ詮索には限がないこと、確証なく人を疑ったり、貶す行為は、何も生まないことを今後ともあなたの人生で何度も経験して行くでしょう。その頃、またお会いできたら良いですな。新田岩松由来の者より。--124.86.233.147 2007年10月6日 (土) 19:04 (UTC) IP氏へ
ご苦労さまです。上の提案の所でご返答させていたがきましたよ。そうそう、筑波大学への問い合わせの件は、まだだったのですか?それは結構なことです。自分で自分の首を絞めるようなものであることは、当然わかってらっしゃる筈ですから。ネット上ではなく、実社会でのなりわいと法は、そう簡単な物でなく、これが出来る方は、一部の公的資格者だけで、あなたの本当の身分を推定されるだけですな。結果を楽しみにしていますよ。--124.86.233.147 2007年10月6日 (土) 19:44 (UTC)
どうもDoripoke氏は個人情報保護法をご存知ないのですか?知らない子供が誤解をおこしそうなので回答させていただきました。それと、筑波大学の先生が真実どちら派かもご存知なのですか?世の中そんなに簡単じゃないですよ。なんでも公開しなさいという法はありません。それに、こういった問い合わせを個人で行う場合、メールでは、振り込め詐欺からの電話となんらかわりない問い合わせとなります。お役所仕事は厄介なのですよ。少なくとも、ご自分の足で直接出向いてお願いするぐらいの誠意は必要でしょう。お待ちしております。--124.85.41.23 2007年10月7日 (日) 08:36 (UTC)
広域IPアドレスのブロックより帰ってまいりました。いよいよ、精神的に煮詰まっていらっしゃるようすですね。私の場合、喜連川一色家さんやその援護者と異なり、Doripokeさんが誰なのか?が知りたいのです。彼の投稿編集記事の傾向を、彼のログから判断しますと、ほぼ一般記事です。喜連川騒動関係を除くとですが。彼も異様な執着をしめしている人物の一人と見受けられます。それで、是非足を運んでいただきたく思ったのです。このような場では、じゅうぶんな意見交換はできませんので是非いらしてください。そうなれば、お互いを確認した上で、議論も出来るでしょう。Wikipediaさんには、それなりの方針があることは理解できておりますので、記事には現在の所、編集参加の意思はありません。そして、確証なく喜連川騒動関係記事に参加投稿した方々を同一人物と見なし、「詐欺野郎」であったり「あらし行為をした。」などと、ネット上で発言することは、いかなる行為であるのか、また、喜連川一色家さんに関しては、皆さんは、彼のページをリンクさせております。そして、喜連川一色家さんは、彼のページ内で本人の個人情報を開示しているわけですが、この行為は、ネット犯罪行為に近ずく事になります。管理者の方は、いずれ、このことを判断することになると思いますよ。良い記事を作るためには、紳士的でな会話を続けることが大切ですし、当然、記事にかかわるには、ご自分の足で、記事に掲載された史料などを確認し、記事内容とことを検証して、はじめて意義なり修正を加えるのが、正しい姿であると思います。正しい修正であれば、そこには、論争は発生しません。--124.85.36.237 2007年10月9日 (火) 06:51 (UTC)
Doripoke氏は、喜連川騒動関係の記事や書き込みがあると=「喜連川一色家の書き込み」と思い込み、確たる、証拠もなく全ての記事への協賛者を排除しようとしているようですね。繰り返しますが、Doripoke氏は、自分で喜連川騒動関係の記事に、出典要請のタグを自分で貼り付け、その上で、無期投稿ブロック状態であり出典を付けようがない喜連川一色家氏に変わり、出典を彼の協賛者やそれを知る全ての者により付加されると、「喜連川一色家氏の投稿違反」と想定してリバートしているように思われます。そうでないこと願いたいのですが。それはそれとして、現在の状態では、記事は発展できないと思います。また、出典が出されても、Doripoke氏独自による投稿ブロックを、確証もない彼の言うがままに許しているWikipediaの管理者としても、「出典がでてこない」を理由として、この記事の削除もできないという、ジレンマに陥っているようにも思います。しかし、いかなる論文でも出版物でも、勿論このWikipedia記事であっても、大切なのは出典です。これが示される記事であれば、その記事の検証がいつでも可能であり、この出典をもとに記事本文がより信憑性が高いものとなることが望まれるのです。現在のままではいかがなものかと。そこで、Doripokeさん自信が納得いただけるよう、メールではなくご自信の足でご来館いただければと思うのです。また、この記事の保護状態の根源は、Doripoke氏の思い込みにあるわけで、けして、Wikipediaの方針上にあるものではないと考えます。出典と本文に相違があるのであれば、その件で修正・加筆がされるのであれば、論争はおきません。Doripoke氏は、出典を調査することなく、思い込みで出典削除となるリバートをされたので、このような問題となっているのです。そろそろ、管理者の方の判断を願いたいとます。--123.224.15.150 2007年10月10日 (水) 14:49 (UTC) 追伸、当ノート内のこれまでの会話の中で、Doripoke氏の思い込みによるリーバートの事実は、検証できたかと思います。--123.224.15.150 2007年10月10日 (水) 14:59 (UTC) この節における、DoripokeさんとIPさんのやりとりは、記事の発展に繋がるものではありません。以後は、ウィキペディアの外部で、二人でやりとりして頂ければと考えます。 保護については、Wikipedia:保護の方針#保護をかけてもよい場合の1に合致すると考えました。10月3日の履歴を確認下さい。また、出典があるからといって、その記述をしてもいいということではありません。Wikipedia:検証可能性#但し書きやWikipedia:独自研究は載せないをご覧下さい。 IPさんはアカウントを取り、メールアドレスを登録すれば、Doripokeさんにウィキメールを送ることができます。特に編集することがなく、不適切な利用者名でなければ、ブロックされることをおそれる必要はないでしょう。IPさんがどうしてもアカウントの取得をしたくない、Doripokeさんのほうからアクセスしたい、ということであれば、図書館に問い合わせるなり、喜連川一色家さんに仲介の労を取って頂くなりということもあるかもしれません。ウィキペディアとしては、これらに関与できるものではないですが、常識ある範囲で、それぞれご検討下さい。 なお、本文の保護はまもなく解除されるでしょう。上記「提案」で述べた通り、資料を当たり、資料自体の批判を行なった情報源を得ての、加筆・編集を期待します。ただし、これまでこの記事の編集に加わった人はごく限られています。そうではない加筆があった場合、再度保護による対処を行なうことがあります。保護された場合、これまでの議論と関係なく、この項目に関心を持ち、加筆を試みる方は、加筆する分をノートに提示した上で、保護解除依頼をお願いすることになるかもしれません。あらかじめご了承下さい。--Ks aka 98 2007年10月10日 (水) 16:05 (UTC) 追:『喜連川町史』第三巻史料編3近世ですが、上で書いた通り、地元の図書館にも所蔵がないようですし、国会図書館やwebcatでの蔵書検索にも引っかかってこないようです。他の巻は揃っているようですので、蔵書の対象になっていないわけではなさそうです。何か事情(三巻だけ書名が異なっているなど)をご存じでしょうか?--Ks aka 98 2007年10月10日 (水) 16:53 (UTC) Ks aka 98さんのご意見、了承させていただきました。ただし、Doripoke氏とのメールのやり取りは、察するところ無駄になります。直接お会いすることができればと考えています。 さて、お尋ねの「『喜連川町史』第三巻 資料編3 近世」の件、私も気になり栃木県立図書館の担当者の方に調べていただきました。たしかに、Ks aka 98さんの言われる通りでした。発刊発売され月日も経ちますので、当然配置されていると思い込んでいたようです。おはずかしい話でした。栃木県立図書館の担当者の方のお話によると「9月に下野新聞(栃木県唯一の地方新聞)に発刊の記事広告が出たのに納品が遅れているようなので、さくら市の編纂委員会(喜連川町史編纂委員会)に問い合わせたところ、『喜連川町史』第三巻 資料編3近世は諸事情により市からの、公立図書館への配布の認可がまだ下りない。とのことで、発刊済みであるのに異例なことである。」とのことでした。よって、この文献による当記事への出典表記は、これが配布されてからと考えております。この文献関係については、ひとまず休憩となります。しかし、他の出典文献は、すべて公開中であることを報告させていただきます。 また、これは、あくまで、推定ではありますが、喜連川一色家氏のページ「喜連川騒動における一考察」を拝見しますと、すでに、「『喜連川町史』資料編3 近世」の不備についての指摘が氏によって9月よりされております。これに関係するのかもしれませんね。当文献は、私が同編纂委員会から購入した時、は67番目の購入者としてのサインをしてきました。喜連川一色家さんの購入が、私の前か後かは、判りませんが、すでに100冊ぐらいは、出回っていると想定されます。さくら市の領収書も発行されております。よって、この発刊の事実をさくら市は否定できないでしょう。そして、この文献に手直しが入るとすれば、元五人の百姓家の文書(家伝書)『喜連川家由来書』のあたりの取り扱いかと思います。重ねますが想定です。「さくら市市長の発刊ことば」の内容にそった形で、いずれ修正され再発刊され、公共図書館にもスムーズに配布されるかと思います。同シリーズの他の発刊済の文献は、すでに配布されていますので、これだけ発刊しないことは考えずらいと私は判断しています。--220.104.61.96 2007年10月11日 (木) 15:47 (UTC) Wikipediaでいう「出典」についての理解どうも微妙に解釈の違い、理解の違いがあるようにも見られますので、いちおう念のため(だれか特定の人向けということではなく、みんなのために)あらためてまとめてみたいと思います。
どうも、「出典としては発刊済の研究文書が求められる」ということについて「発刊済」のほうに力点を置いて解釈すると、(B)が「出典」になり得ると勘違いしてしまうのではないかと思います。 しかし実は「発刊済」かつ「研究」でなければならないので、正確には(C)でなければ「出典」にはなりません。(B)は一次資料と内容的に差がないからです。 ただし、これは(A)に書かれている内容「何某が何時、何をした」を「事実」として記事に記述する場合のことです。 (B)を出典とする場合、「(A)という一次資料に『何某が何時、何をした』という記述がある」という事実に対しての出典とすることは可能だと思います。 抽象的に書くとわかりにくい面もあるので、例を書きます。
上記の場合、「上杉謙信(長尾景虎)は女性であった可能性がある」と記事中に記述したい場合は(C)を出典とする必要があります。 (B)を出典とする場合には「(A)という古文書に『上杉謙信(長尾景虎)は女性であった』と書かれている」と書かなければいけません。その真偽の判定を勝手に行ってはいけません。行うと「独自研究」になります。 以上。--Horlicks 2007年10月12日 (金) 02:05 (UTC)
そういう闘いは、学会などに乗り込んで行なって頂ければ、あるいは、ジンボ・ウェールズあるいは財団関係者と直接対話して頂ければと存じます。方針制定に関する古い議論は、英語版の履歴などから、ある程度追うことができます。そちらを参照し、財団の考えと、日本語版にある方針の間に重大な齟齬があれば、ぼくの会話ページにでもお知らせ下さい。なお、日本語版は、英語版よりもかなり緩く運用されているようです。記事の発展に繋がらない話題の投稿が続くこと、広域ブロックの依頼が出ていますが、広域ブロックを避けることもあり、このページは3カ月の半保護としました。適切でないと判断される場合、保護解除依頼へ、管理者であればそれぞれの判断で解除ください。--Ks aka 98 2007年10月15日 (月) 17:30 (UTC) 一色氏久を嫡流の出とする事への疑問何処からの出典でしょうか?嫡流の出とする根拠は?関東一色氏である幸手家は嫡流ではありませんし?--219.97.179.230 2008年8月18日 (月) 10:04 (UTC) また・・・先月あたりから、またまた栃木OCNのIPユーザさんが「一色氏久」「喜連川昭氏」など、例の喜連川騒動関連記事に限った編集をされているようですが。どうしたものですかねぇ。--Horlicks(会話) 2012年11月16日 (金) 18:42 (UTC) |