ドクメンタ7でヨーゼフ・ボイス が行った『Stadtverwaldung』(都市緑化、7,000本の樫の木プロジェクト)の20年後の姿。フリデリチアヌム美術館前の大きく育った樫の写真
ドクメンタ (documenta )とはドイツ連邦共和国 中央部(かつての東西ドイツ国境付近)、ヘッセン州 の小さな古都・カッセル で1955年 以来、5年に一度行われる現代美術 の大型グループ展である。あるテーマのもとに現代美術の先端を担う作家を世界中から集めて紹介するという方針で開催されており、美術界の動向に与える影響力が大きく、世界の数ある美術展の中でも「ヴェネツィア・ビエンナーレ 」に匹敵する重要な展覧会の一つに数えられる。
1人のディレクターがテーマ選定、作家選定を一任され全責任を負う(ディレクターが数人のキュレーター をさらに集めてチームを組むこともある)。他の美術展にあるような賞 制度はない。
作品はフリデリチアヌム美術館を中心に市内各地に展示される。近年は1回で欧州全土から60万人程度の観客を集め、町おこしにもなっている。
沿革
前衛芸術の復権
第1回は1955年 に当地在住の美術家、建築家、教師でもあったアルノルト・ボーデが提唱し、同年カッセルで開催された「第3回西ドイツ 連邦庭園見本市 」の行事の一環として開催された。戦後ドイツの芸術の復興を掲げ、ナチ独裁体制下で退廃芸術 として弾圧されたモダン・アートの名誉回復をはかり、20世紀 の重要な前衛芸術 運動の作家たち(パブロ・ピカソ 、ピエト・モンドリアン 、ジャン・アルプ 、アンリ・マティス 、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー 、エミール・ノルデ ほか多数)の業績を振り返る内容の展覧会であった。ボーデのこの計画は国の内外から大きな反響を得、以後ドクメンタは現代美術の動向を映し出す展覧会として確立されるようになる。
この展覧会は第二次世界大戦 以後、「文化と芸術の国」から「ファシズム と芸術破壊の国」へとイメージダウンしたドイツ国家のイメージ回復や文化的復権をも意図していた。また東西ドイツ国境 で開催することで将来の統合後のドイツの地理的にも文化的にも中心地となることを目指したが、冷戦 継続により当面は東側 に対する西側 (欧米)の自由で先端的な美術のショーケースとして開催されることを余儀なくされた。ゲルハルト・リヒター をはじめ、多くの東ドイツ の芸術家がドクメンタを訪れた後に東ドイツからの脱国を決意した。
世界の最重要な展覧会へ
第2回以降はカッセル市やヘッセン州の出資による「ドクメンタ有限会社」が設立され、以来現在までこの会社の企画・運営によって当初はほぼ4年に一度、現在はほぼ5年に一度開催されている。
第2回は回顧展から一転し、同時代の(西欧の)美術動向をまとめた展覧会となった。
第3回以降は展覧会は同時代の美術の動向を端的に示すような主題(テーマ)が決められ、それに沿った作品が発表される。
第4回以降は物故者を除くことになり、同時代の作家だけの参加となり同時代美術(現代美術)のみが展示されるようになった。これにより、美術の現実性・現代性をより反映した展覧会となった。
このころ、世界最大の美術展ヴェネツィア・ビエンナーレ (国ごとのパビリオンが賞を競う形式の展覧会)が「美術界のオリンピック」としてアメリカ、フランスほか大国同士のメダル争いの場となり、巨額の資本が動く現場と化して、美術の動向を考える場として有効に機能しなくなったため、国別展示ではなくテーマ展であるドクメンタの「世界最大の現代美術展」としての重要性が非常に高まった。
第5回以来、ディレクター (芸術総監督)が任命され、テーマや作家選定はディレクター個人に一任されることになり展覧会の訴えたい内容がより明確になった。特に第5回はハラルド・ゼーマン (1933年~2005年、スイス生まれ)が任命され話題となった回であった。彼は1969年 にベルン で「態度が形になるとき」(When Attitudes Become Form)というコンセプチュアル・アート の伝説的な展覧会をまとめ上げた当時気鋭のキュレーター で、彼の監督した第5回はヨーゼフ・ボイス らを大々的に起用し多くのハプニング やパフォーマンスアート を実行させ「美術とは何か」を問うたドクメンタ史上最も美術界に対するインパクトが大きい展覧会であった。しかし観客の評判が悪く展覧会は赤字に終わり、カッセル市が彼を告訴するほどであった。以降、ディレクターの人選と手腕、打ち出すテーマが毎回賛否両論を呼ぶようになった。
冷戦後の混乱
ジョナサン・ボロフスキー の作品・Himmelsstürmer
第12回(2007年 )で展示された田中敦子 の作品(1955年 発表、2007年再制作)
ドクメンタは毎回白人男性がディレクターであったため必然的に選ばれる作家も西欧か北米の作家が多く、偏りが指摘されていた。特に1980年代 にはアジア や中南米 、アフリカ の作家を取り上げる展覧会が各地で開催され風向きを変え(例:「大地の魔術師たち」展、ポンピドゥー・センター )、またフェミニズム が美術の世界でも影響を強め第三世界の作家や女性作家を取り上げることも課題となった。
そして冷戦 後、ドクメンタは対東側の美術戦略拠点としての役割を終えた。現代美術自体が欧米だけでなく旧東側諸国やアジア・アフリカ・中南米など多様な国からも発信されるようになり、それらを一括りに定義付けることは困難になり、もはやドクメンタの意義は薄らぎ形骸化したかのように指摘されるようになった。
冷戦終結後初の第9回(1992年 )ではベルギー人 のヤン・フート がディレクターに選ばれたが、統一テーマは設けられなかった。また物故者であるにもかかわらずヨーゼフ・ボイスの作品が出展された。37カ国からの作家が選ばれ日本人は川俣正 、舟越桂 、竹岡雄二 、片瀬和夫 、長沢英俊 が出展したが、欧米中心のきらいはあり近郊ではドクメンタに対抗した『他文化との遭遇展 』が開催された。
1997年 の第10回で初の女性ディレクター、フランス人のカトリーヌ・ダヴィッド が就任。欧米中心の作家選定であったが、会期中毎日レクチャーを行い、コンセプチュアルアートや映像・写真を中心とした意欲的な展示を行った。
2002年 の第11回は一転し、初めてのアフリカ 出身者であるナイジェリア 人オクウィ・エンヴェゾー がディレクターに就任し「グローバリゼーション 」を主題にした。多様な国からの作家参加と、旧植民地 や内戦 をテーマに極めて政治性・社会性の強いドキュメンタリー 的な映像作品の多さが特徴であった。他都市での巡回展との共催、シンポジウムなどを積み重ねて展覧会本番に結びつける展覧会作成のプロセスなど、いくつかの手法がわかりにくいと批判されたが今後の展覧会のあり方の参考として注目も浴びた。
2007年 の第12回はロゲール=マルティン・ビュルゲル がディレクターとなり、「近代は我々の古代/過去か」「グローバリゼーションの中での剥き出しの生とはなにか」「美術の教育において我々は何をなすべきか」の3つを大まかなテーマとした展示が行われた。会場はカッセル各地の展示空間や宮殿にまで広がる過去最大のものとなり、中世から現代までの世界各地作家の作品が注釈なしに並べられた。全体にこの時期のグローバリズムや現代美術市場の加熱に対するアンチテーゼとなる作品が目立ち、各地の国際展やアートフェアでの人気作家を招待していないことも特徴となった。
2012年には、日本からは、現代美術家・大竹伸朗 (「MON CHERI: A Self-Portrait as a Scrapped Shed」)と、takram design engineering(「Shenu: Hydrolemic System」)の田川欣哉 、渡邉康太郎 、カズ・ヨネダ等が参加した。
第14回(2017年 )は、ポーランド出身のアダム・シムジック(Adam Szymczyk)がディレクターとなり、「アテネに学ぶ(Learning From Athens)」とテーマとした。ギリシャの首都アテネにも会場を設け、アテネとカッセルでほぼ同内容の展覧会を開催した。カッセル以外を会場としたのは初めてであった。西洋文明の起源の地でもあり、2015年欧州難民危機 では中東・アフリカ移民のヨーロッパ流入の最前線となり、2010年欧州ソブリン危機 ではユーロを守るためにドイツに緊縮財政を押し付けられて経済や社会の危機を経験したギリシャを、ドイツを代表するアートイベントが大きく取り上げ、会場も移したことは、大きな反響を呼んだ。美術家などのインタビューを放送するラジオ番組なども設けられた。
データ
回数
開催期間
参加作家数
ディレクター
来場者数
第1回
1955年 7月16日 ~9月18日
148人
130,000人
第2回
1959年 7月11日 ~10月11日
338人
134,000人
第3回
1964年 6月27日 ~10月5日
361人
200,000人
第4回
1968年 6月27日~10月6日
151人
220,000人
第5回
1972年 6月30日 ~10月8日
218人
ハラルド・ゼーマン
228,621人
第6回
1977年 6月24日 ~10月2日
622人
マンフレート・シュネッケンブルガー
343,410人
第7回
1982年 6月19日 ~9月28日
182人
ルディ・フックス ほか
378,691人
第8回
1987年 6月12日 ~9月20日
150人
マンフレート・シュネッケンブルガー
474,417人
第9回
1992年 6月13日 ~9月20日
189人
ヤン・フート ほか
603,456人
第10回
1997年 6月21日 ~9月28日
120人
カトリーヌ・ダヴィッド
628,776人
第11回
2002年 6月8日 ~9月15日
118人
オクウィ・エンヴェゾー ほか
650,924人
第12回
2007年 6月16日 ~9月23日
114人
ロゲール・ビュルゲル
754,301人
第13回
2012年 6月9日 ~9月16日
180人
カロリン・クリストフ=バカルギエフ
860,000人
第14回
2017年 4月8日 ~7月16日 (アテネ)
2017年 6月10日 ~9月17日 (カッセル)
160人以上
アダム・シムジック
339.000人(アテネ会場)
891.500人(カッセル会場)
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
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