テオバルト・テオドール・フリードリヒ・アルフレート・フォン・ベートマン・ホルヴェーク (Theobald Theodor Friedrich Alfred von Bethmann Hollweg , 1856年 11月29日 – 1921年 1月1日 )は、ドイツ の内務 官僚 、政治家 。第一次世界大戦 開戦時のドイツ帝国 の宰相。「灰色の猊下 (Gray Cardinal) 」と呼ばれた。
来歴
出自
1856年 11月29日、地方公務員フェリックス・フォン・ベートマン・ホルヴェーク (ドイツ語版 ) の息子としてブランデンブルク州ホーエンフィノウに生まれる。祖父アウグスト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク (ドイツ語版 ) は著名な法律学者で、ベルリン のフリードリヒ・ヴィルヘルム大学 学長・プロイセン王国 文化大臣を歴任した。先祖はホルヴェーク姓だったが、1748年 に曽祖父ヨハン・ヤーコプ・フォン・ホルヴェーク (ドイツ語版 ) が、フランクフルト・アム・マイン でベートマン銀行 (ドイツ語版 ) を経営するベートマン家 (英語版 ) の娘と結婚し、ベートマン・ホルヴェーク姓に改めた[ 1] 。母親のイザベラ・ド・ルージュモンはフランス系スイス人であった。
政治家
ベートマン・ホルヴェークはストラスブール大学 、ライプツィヒ大学 、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学で学んだ後、1882年 にプロイセン内務省に入省。1899年 にブランデンブルク州 (ドイツ語版 ) 知事に就任し、7月に元プロイセン首相エルンスト・フォン・プフェル の娘マーサと結婚した。1905年 にプロイセン内務大臣 に就任し、1907年 に帝国国務大臣 (ドイツ語版 ) に転任する。1909年 にベルンハルト・フォン・ビューロー の辞任に伴い、後任として帝国宰相 に就任する[ 2] 。
ドイツ宰相
軍装のベートマン・ホルヴェーク(軍人ではないが、大戦中に将軍の軍服を着る名誉を与えられた[ 3] )
ベートマン・ホルヴェークは、イギリス との建艦競争 を避け宥和政策を掲げたが、海軍大臣アルフレート・フォン・ティルピッツ の反対に遭い失敗している。1911年 の第二次モロッコ事件 が発生し緊張状態となるが、イギリスとの関係改善は進められた。バルカン戦争 の際にはイギリス外務大臣エドワード・グレイ と協力し緊張緩和に努め、3B政策 についての妥協を求める交渉もしている。
国内政治においても、ベートマン・ホルヴェークは左派の社会主義者、自由主義者と右派の民族主義者の間で妥協し合い、他の政治家との対立を避けていた。
1914年 6月28日、サラエボ事件 が発生すると外務大臣ゴットリーブ・フォン・ヤゴー (英語版 ) とともにオーストリア=ハンガリー帝国 を全面的に支援するため尽力した。グレイはオーストリアとセルビア王国 の調停を提案したが、オーストリアが開戦を躊躇うことを危惧し提案を無視した。しかし、ベートマン・ホルヴェークもヤゴーも第一次世界大戦 のような全面戦争は想定しておらず、オーストリア最後通牒 が通達され事態の重大さを知り辞任を申し出たが、ヴィルヘルム2世 に「君は自分が食べるためにシチューを作ったのだろう」と返答され拒否された[ 4] 。
戦前の外交政策の多くがイギリスとの良好な関係を築くことにあったベートマン・ホルヴェークにとって、ドイツがフランスに侵攻した際、ベルギー の中立を破ってイギリスが宣戦布告したことに特に憤慨している。エドワード・ゴッシェン駐独イギリス大使に、「紙くず」(1839年 のベルギーの中立を保障するロンドン条約 )のために、どうしてイギリスは戦争をするのか、と尋ねたという。
ベートマン・ホルヴェークは、イギリスが参戦した場合の計画をいくつか立てており、イギリスの植民地を不安定にする計画、特にヒンドゥー=ドイツの陰謀に深くかかわっていた。
通説では、大戦中のベートマン・ホルヴェークは穏健政策を執ろうとしたが陸軍参謀本部 の独走に振り回されたと見られている。しかし、歴史家フリッツ・フィッシャー の研究では、従来考えられていたよりも積極的に強硬派の意見を採用し、1914年9月にはポーランド 全域を併合した後に住民を強制に立ち退かせ、ドイツ人を直接入植させ生存圏 を確立する「9月計画 (英語版 ) 」を検討していたことが指摘されている[ 5] 。
ベートマン・ホルヴェークはアメリカ合衆国 のウッドロウ・ウィルソン を仲介に条件付き和平を模索しており、1916年 夏にエーリヒ・フォン・ファルケンハイン を追い落として軍部の実権を掌握したパウル・フォン・ヒンデンブルク とエーリヒ・ルーデンドルフ (それぞれ東部方面軍司令官、参謀長)の主張する無制限潜水艦作戦 に反対していたが、彼らはは1917年 3月 、ヘニング・フォン・ホルツェンドルフ提督の覚書により無制限潜水艦戦の採用を強行したのである。軍部の方針に反対するベートマン・ホルヴェークは次第に政府内で影響力を失っていき、1917年 7月13日にライヒ議会 でマティアス・エルツベルガー の平和決議が社会民主党 、ドイツ進歩党 、中央党 の連合で可決され、さらに軍部の意向に沿う宰相を望んだルーデンドルフに追われる形で辞任した。後任のライヒ宰相には当時ほとんど無名だったゲオルク・ミヒャエリス が就任した。それ以降ドイツ国内の戦争指導や外交その他の行政はヒンデンブルク、ルーデンドルフ率いる軍部(陸軍最高司令部 )の以降に沿う形となることになり、事実上の軍部独裁体制が確立した。
1918年 、ドイツ国内の戦争支持は、ストライキや政治的扇動によってますます脅かされるようになった。10月、ドイツ帝国海軍 の水兵たちが、イギリス海軍との最終対決に向け出港を命じられると反乱を起こした。このキール の反乱は、ドイツ11月革命 の引き金となり、戦争は終結した。ベートマン・ホルヴェークはライヒ議会を説得し、和平交渉に応じることを選択させようとした。
死去
1919年 6月、連合国 がヴィルヘルム2世を訴追しようとした際に、代わりに被告として裁判を受けると申し出て注目を集めた[ 6] 。しかし、この申し出は最高戦争評議会 (英語版 ) によって黙殺されている。ベートマン・ホルヴェークは故郷に戻り回顧録を執筆しながら余生を過ごすが、1920年 のクリスマスに風邪をひいて急性肺炎を引き起こし、1921年 1月1日に死去した。
脚注
注釈
^ ベートマン・ホルヴェークは軍人ではなく、文官だが第一次世界大戦中 にプロイセン王国陸軍の名誉階級として「陸軍中将」の称号を授かった。以後彼は軍服を着用するようになった。
出典
^ Chisholm, Hugh, ed. (1922). "Bethmann Hollweg, Theobald von" . Encyclopædia Britannica (英語) (12th ed.). London & New York: The Encyclopædia Britannica Company.
^ Scrap of Paper Chancellor of Germany Dies , The Globe . Toronto, 3 January 1921. accessed on 8 October 2006.
^ この記事にはパブリックドメイン である次の文書本文が含まれる: Rines, George Edwin, ed. (1920). "Bethmann-Hollweg, Theobald Theodore Friedrich Alfred von" . Encyclopedia Americana (英語).
^ Butler, David Allen (2010). THE BURDEN OF GUILT: How Germany Shattered the Last Days of Peace, Summer 1914 . Casemate Publishers. p. 103. https://books.google.com/books?id=FkMt49l3qkEC 30 July 2012 閲覧。
^ Isabel V. Hull (2005). Absolute Destruction: Military Culture And The Practices Of War In Imperial Germany . Cornell University Press. p. 233. https://books.google.com/books?id=4tiHdU0OxXUC&pg=PP7&dq=Absolute+Destruction:+Military+Culture+And+The+Practices+Of+War+In+Imperial+Germany%22+Isabel+V.+Hull+Cornell&lr=&as_brr=3 7 July 2009 閲覧。
^ Gary Jonathan Bass Stay the Hand of Vengeance: The Politics of War Crimes Tribunals Princeton University Press (2002) p77
参考文献
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Bass, Gary Jonathan (2002). Stay the Hand of Vengeance: The Politics of War Crimes Tribunals . Prince, NJ: Princeton University Press
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外部リンク