テイチク・ジャズ・オーケストラ
テイチク・ジャズ・オーケストラ(Teichiku Jazz Orchestra)は、日本のレコード会社テイチクエンタテインメント社内に、かつて存在した録音用専属オーケストラである。 略歴・概要1930年代初頭、テイチクは浪曲、落語を得意分野としていたが、ジャズなど洋楽に関してのレコードは少数であり、あまり力を入れていなかった。だが、1934年、テイチクが東京進出したことで、今までのイメージの払拭を図り、当時関西で人気を博していた日本人と外国人の混合バンド「四ホール連盟ダンス・オーケストラ」や白人バンド「ジェリー・ウッド・エンド・ヒズ・アンバサダーズ」等の録音を行い、多くのレコードを発売する。 同時にテイチク専属のジャズバンドの計画が持ち上がり、ディック・ミネがプレイヤーの人選を行った結果、白人3人、日本人6人となるディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダスが東京で結成された[1]。このバンドの初吹き込みは1934年8月7日に行われ、『ハレムから来た男(原題:The Man from Harlem)』、『ホワイト・ヒート(原題:White heat)』、『ロマンチック(原題:Romantic)』が録音された。なお、このセッションにおいてディック・ミネが参加したのは『ロマンチック』のみであり[2][3]、『ロマンチック』は彼のデビュー盤となった[4][5]。 その後は、ディック・ミネがレコードを吹き込む時に限り、「ディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス」の名称が使用されるようになり、インストの録音[6][7]や川畑文子、チェリー・ミヤノ、ベティ稲田など日系二世、三世歌手の伴奏等を務める際はテイチク・ジャズ・オーケストラとしての名称が主に使われるようになった[2]。 テイチク・ジャズ・オーケストラ(ディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス)による録音は人気を博し、テイチクは「ジャズ王国」と評されるに至る[2]。 それから何度かマイナーチェンジでメンバーの入れ替えを行っていたが、1940年、テイチク管弦楽団と名称変更がなされ、規模縮小される。流行歌や邦曲中心のレパートリーとなりジャズバンドとしての用途は外れていった[2]。 そして、その後のテイチクは「タイゾウ・スヰング・オーケストラ」が主たるジャズバンドとして活躍していくことになる[2]。 テイチク・ジャズ・オーケストラの名称に関しては、テイチク・ジャズバンド、テイチク・オーケストラといった表記のレコードも存在する[2]。 おもな関係者・出身者CDテイチク・ジャズ・オーケストラの音源を収録したおもなCD作品には、次のようなものがある。
脚注参考文献 |