チューリップ (バンド)
チューリップ (TULIP) は、日本のバンド。1968年に前身のザ・フォーシンガーズとして結成。1989年に解散するが、1997年に再結成。 ビートルズに影響を受けたメロディ・ラインやコーラスにより洋楽ファンからの支持を集めた[1]。 メンバー全員が作詞・作曲・ボーカルおよびコーラスを担当していることも特徴で、このスタイルは伝統的に続いている。 メンバー
経歴結成、デビュー1968年12月、田中孝二をリーダーとし、西南学院大学在学中に 福岡市で結成されたザ・フォーシンガーズに、財津和夫が吉田彰、末広信幸と共に参加。このメンバーにて第3回全日本ライト・ミュージック・コンテスト(フォーク部門)に出場し、九州代表としてグランプリに進出する。この時の第一位は「竹田の子守唄」の赤い鳥(関西・四国地区代表)、第2位は小田和正在籍のジ・オフ?コース[注釈 1](東北地区代表)で、実況録音(1969年11月2日、東京厚生年金会館)がTBSラジオによって録音され、日本グラモフォンよりLPとして発売された(3rd ALL JAPAN LIGHT MUSIC CONTEST GRAND PRIX / FOLK POLYDOR MR-1059 1970.3.1発売)。ここに収録されている「金比羅舟々」が、公式盤としての最古の音源となる。なお、このMR-1059 のライナーには「このグランプリをもってグループは解散」と記されている。 1970年にザ・フォーシンガーズは解散、財津は吉田・末広に宗田慎二を加えて正式に「チューリップ」を結成した(財津は1995年にNHKの企画でこの時期のメンバー数人と再会し、当時の曲「柱時計が10時半」を共に演奏している)。1971年に九州朝日放送で録音した「柱時計が10時半」など4曲を入れたEPを2000枚発売。同年上京して東芝音楽工業の新田和長がディレクターとなり、「私の小さな人生」を発売するも、直後に宗田と末広は脱退して福岡に戻る。財津らは一度福岡に戻ったのち、他バンドからメンバーを引き抜くが、海援隊から上田雅利を引き抜いたのを最後に、5人のメンバー(財津(ボーカル、ギター、キーボード)、姫野達也(ボーカル、ギター、キーボード)、安部俊幸(ギター。安部を引き抜きにきた現場で「私の小さな人生」が書き下ろされたことを、後に安部自身が述べている)、上田(ドラムス)、吉田(ベース))で本格的に活動を開始する。 翌1972年に改めて上京。当時の所属事務所シンコー・ミュージック初の専属アーティストとして東芝音楽工業(後の東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン、現:ユニバーサルミュージック)から「魔法の黄色い靴」でメジャー・デビュー。翌1973年に出した3枚目のシングル「心の旅」が5か月かけてレコード売上1位を記録し、一躍有名となる。その後も「青春の影」(1974年)、「サボテンの花」(1975年)、「虹とスニーカーの頃」(1979年)など数々の作品を輩出。その名を不動のものとする。第1期の特徴は「風のメロディ」(1976年)など財津と姫野のツインボーカル楽曲を用意していた点である。この他に、姫野と安部のツインボーカル楽曲もシングルB面やアルバムで取り上げられていた。1978年には財津がソロ・デビューし、チューリップのライブで財津のソロナンバーが披露されるようになった。 第二期、第三期、そして一旦解散1979年のアルバム『Someday Somewhere』を以て、上田・吉田が脱退。上田は新たに自分のバンドTonyを結成し、吉田は音楽界から身を引いて珈琲店経営に専念する。同アルバムを以て安部はボーカルを取らなくなり、作曲と演奏に専念する。 財津は新たに宮城伸一郎 (b)、伊藤薫 (ds) を迎え、チューリップ第2期に入る。第1期のブリティッシュビートを基調とした楽曲から転換し、シンセサイザー、デジタル機器を多用して宇宙、平和、環境問題などをテーマにしたポップで壮大なサウンドを構築するが、1970年代とは一転してセールスは低迷する。1982年に通算で1000回目のライブを達成。 1984年、東芝EMIプロデューサーの新田が独立して設立したファンハウスへ移籍。しかし、1985年夏に姫野・安部・伊藤がシングル「アイ・アイ・アイ」のリリースを最後に脱退(正式な発表は翌1986年)、オールウェイズを結成した。これにより、オリジナルメンバーは財津を残すだけとなった。現在に至るまで、脱退の経緯について財津は「わだかまりがあった」とのみ語り[3]、他のメンバーも多くを語っていないため不明な点が多いが、姫野は「財津の変化していく音楽性が自分の音楽の志向とかけ離れてしまったから」と発言し[4]、2023年8月31日放送された『NHK MUSIC SPECIAL ~TULIP 50周年記念ツアー 50年の軌跡~』の中で財津が「未来永劫へ続くようなそういうバンドにしていかなきゃいけないっていう、そんな脅迫が生まれてきてバンドは分裂したような形になったし、それを受け入れていくしかないとは思ってましたけれどちょっとつらかった」と初めて語った。窮地に陥った財津は、残ったメンバー宮城、新メンバーの松本淳 (ds) と共に、数人のサポートメンバーや、財津自身の多重録音などにより、アルバム『I Like Party』を完成させた(財津はこれを2.5期と呼んでいる)。一方、3人の脱退は当初は明らかにされず、同年夏に丹野義昭 (kb) を加えた新メンバーでの同名ツアーの開始直前に、一部のメディアのみに公表されたため、ファンの反発を招くこととなった。 その後、チューリップは第3期に入る。1986年、日本コロムビアのトライアドへ移籍。翌1987年4月に高橋裕幸 (kb) が加入するが、7月に松本が渡辺美里のサポートメンバーに専念するため脱退。ギタリスト及び1987年7月以降はドラマーも不在になり、サポートメンバー数人を加えたが、キーボードと打ち込み主体の1980年代的なシティ・ポップへサウンドは大きく変化した。結局主要メンバーが抜けた穴は回復できずセールスは低迷し、姫野がボーカルを取っていた曲をライブで封印したこともあり、かつて全国で展開していたライブの回数も激減した。 1988年、アルバム『そんなとき女を好きになる』で上田が8年ぶりにサポートとして1曲のみ参加。しかし、状況は変わらず、財津はついにバンドの解散を決断する。 1989年、当時のラスト・アルバム『Well』をリリース。クレジットに安部・姫野への謝辞があり、二人が何らかの形で参加したとされる。二人が参加した同名全国ツアー(計26回、ライブアルバムも発売)を開始。そして、7月8日、全国ツアーの最終日。中野サンプラザでラストライブを開催し一旦解散。財津は本格的なソロ活動に突入する。 再結成1989年の一旦解散以降、財津は最早チューリップの再結成は不可能だと考えていたが、1995年にビートルズが「フリー・アズ・ア・バード」をリリースしたことに触発された姫野が声をかけたことで、再結成を決断した[3]。 1997年、レコード会社をビクターエンタテインメントに移籍。吉田を除くオリジナルメンバー4人(財津・姫野・安部・上田)及び2期からのメンバー宮城の5人で再結成。以降、積極的なライブ活動を展開、往年のファンを動員する。以後10年の間に4度の再結成を行う。ライブで演奏する曲目は、新曲の他は初期・第2期の『New Tune』まで。今回の再結成でほぼオリジナルメンバーに戻ったため第2期の末期(『I Like Party』以降)及び第3期は事実上封印されている[注釈 2]。この件について財津は、ファンは「バンドのピークの頃の曲以外は興味がないと思う」と語っている[5]。 1999年、財津が1989年の解散ツアーの京都公演にて口にしていた「1999年9月9日午前9時9分9秒に金閣寺で会おう」という約束を果たすため、当時インドに居住していた安部を除くチューリップのメンバーが金閣寺に集結した[6]。また、BSにて財津が司会を務めていた番組にバンドとして出演し、ビートルズのカバーを含む数曲を演奏した。 2000年、再々結成。「2001年 心の旅」と題したツアーを翌年にかけて行う。 2002年、30周年記念として新曲を発売し、「You are in the world」と題したツアーを翌年にかけて行う。 2005年、新曲の発表と「hope」と題したツアーを行う。ツアー中の11月、高橋ひろとして活動していた元メンバーの高橋が死去。 2006年、デビュー35周年記念ベスト・アルバムを2作同時発売。 2007年、全国ツアー日程発表と同時に、「再結成は今回で最後」と足掛け35年に及ぶバンド活動に再び幕を下ろすとアナウンスされた。5月30日に18年ぶりのオリジナル・アルバム『run』発売。「紅白でバンド活動に終止符を」と第58回NHK紅白歌合戦でファイナルとなることが示唆されていたが、出場を辞退した。 2008年の第59回NHK紅白歌合戦のオープニング曲に財津作詞・作曲の「切手のないおくりもの」が採用された。 2011年3月6日、九州新幹線全線開通を記念したライブイベント「ひとつの九州」に参加し、一夜限りの再結成が実現した。 2012年、メジャー・デビュー40周年を記念したベスト盤発表とコンサートツアーを実施。 2016年9月より、デビュー45周年を記念した全国ツアー「TULIP 45th Memorial Tour "it remembers"」を実施。安部の死去に加え、これまでライブでは再現できなかったレコードの音源を再現すべく、サポート・メンバー3人が帯同している。ツアーは財津の病気により一時中断したが、2018年に「TULIP concert tour 2018 ”is There”」として再開され、2019年7月に無事終了。 デビュー50周年となる2021年のライブについて、財津は「元気だったらやりたいが、年齢的な問題があるので断言はできない。客席がそれを受け入れてくれるなら目指したい」と休養中の2017年に語っていた[8]。結局、コロナ禍を経てメジャー・デビュー50周年となる2022年に姫野・宮城・上田、サポート・メンバーらと共にライブを行うことになった[3]。2022年4月に開始された「チューリップ50周年記念ツアー~the TULIP~」では、1997年の再結成時と同様、第2期までの楽曲を中心に演奏されている(再結成後の曲は取り上げられていない)。同ツアーでの財津に密着するドキュメンタリー「僕の“最後の歌”を届けたい~財津和夫 TULIP ラストツアー~」[9]がNHK総合で2022年9月19日に放送された。なお、財津は2023年に新曲の制作については否定的な見解を述べている[5]。 2024年2月16日、初代ベーシストの吉田彰が死去[10][11][12]。 メンバーとの出会いと別れ、再会のエピソードアマチュア期 (1968-1971) - 財津和夫、田中孝二、吉田彰、末広信幸、宗田慎二
ライブ喫茶「照和」チューリップをはじめ井上陽水、海援隊、甲斐バンドなど九州、特に福岡出身の多くのアーティストが出演していたことから“伝説の照和”と称される[注釈 3]ライブ・ステージを備えた喫茶店で福岡県中央区天神二丁目に所在する。 当時フォークソングがブームになりつつあったことから生演奏をやった方が人が集まると考えたマネージャーの進言によりライブ喫茶となるが、もともとオーナーはレストランにするつもりであった。“喫茶”なのは当時のフォーク・ブームの中心が高校・大学生であると考えたマネージャーの判断による。 チューリップが出演するようになったのはアマチュア期チューリップ(財津・吉田・宗田・末広)から。チューリップ加入前、姫野は「ライラック」、安部は「ハーズメン」として照和に出演していた。第二期チューリップのドラマーである伊藤薫も「リンドン」在籍時に照和に出演したことがある。 その後メンバー2名が脱退すると財津和夫は他のグループから引き抜くような形でメンバーを集め、第一期メンバー(財津・吉田・安部・姫野・上田)を揃えるが、練習場所がなかったため照和を練習場所として使えるように交渉し、営業終了後の店内を使って深夜から朝まで猛練習を行った。安部は著書『ティータイム・トーキング』の中で、照和の待遇の悪さ(出演料の安さや食事の粗末さ)から「チューリップが照和出身といわれることは不本意である」旨を書いている。 2002年7月7日、デビュー30周年を記念して照和で定員限定30名のライブが行われた。チケットは入札式で高額入札者上位30名が入場でき、収益はチャリティに寄付されるというものだった。最終的に1050万円以上の入場料を集め福岡市に寄付された。 2002年に財津出演の保険会社のCM、2006年にチューリップ出演のキリンビールのCM、シングル「青春の影vs心の旅 〜2006 Anniversary Mix〜」の裏ジャケット写真が照和で撮影されている。 コンサートチューリップの特徴として特に注目されるのはライブ活動である。『心の旅』がヒットして以降、70年代は北海道から沖縄県まで、一年で最大50回以上のライブをこなしていた[13]。1982年に通算1000回の記念ライブを行う(下記)。 第2期末期に安部ら3人が脱退して以降、人気が低迷したこともあり、第3期末期の1988年には8回にまで激減した[14]。実際、第3期のライブはNHK-FMで放送されただけで、ライブ・アルバムも発表されていないが、解散発表後の「ファイナル・ツアー"Well"」は北海道から九州まで合計26回行われ、ライブ盤「TULIP FINAL TOUR Well」も制作された。再結成後はかつてほどではないが全国を巡回している。 第二期までと解散コンサート、再結成後のコンサートを含めて10作のライブ・アルバムを発表している(8枚はCD化されている)。その他、保存されていた第一期から第三期までのライブ録音が財津の公式サイトから入手できる[15]。その他、2008年に完全限定盤のボックス・セット「LIVE ACT TULIP 1973-1979」[16]が発売され、「LIVE!! ACT TULIP」の完全版、1979年の吉田・上田が参加した最後のライブ(12月25日、宮城がサポートとして参加)などが収録された。 2016年、クリプトンがライブ・アルバム3枚(「LIVE!! ACT TULIP」、「LIVE!! ACT TULIP Vol.2」、「LIVE!! ACT TULIP Vol.3 鈴蘭&田園ライブ!!」)をデジタルリマスターを施しハイレゾにて配信した[17]。 野外コンサートチューリップは4回の大規模な野外コンサートを行っている。
初の日本武道館公演グループは当初、「尊敬するビートルズが行った会場では、(憧れが強すぎて)コンサートをしたくない。」という意向で「日本武道館では、コンサートは行わない。」ことを明言していたが、1997年に再結成した際、10月2日・3日に「Magical History Tour」と銘打ち、グループとして初の武道館公演を行った。 ファイナル・ツアー
メモリアル・ツアー
ディスコグラフィシングル
※ 1990年には吉田栄作が『心の旅』を、2002年にはソウル・フラワー・ユニオンが『アイ・ラヴ・ユー』を、2011年には中川敬が『しっぽの丸い小犬』をカバーした。チューリップの楽曲は様々なドラマ挿入曲(「ひとつ屋根の下」の『サボテンの花』など)やCMソング(「グリコポッキー」の『ぼくがつくった愛のうた〜いとしのEmily〜』、関西電力「企業広告 阪神・淡路大震災から10年」の『青春の影』など)に採用されている。あまり知られていないがデビュー当時、コーリン鉛筆のシャープペンシル「jib」のCMソングも手がけた。 アルバムオリジナル・アルバム
ライブ・アルバムベスト・アルバム
企画
カバー・アルバム
セルフカバー・アルバム
タイアップ
脚注注釈
出典
関連項目
外部リンク |