ダヤン・ビシエド
ダヤン・ビシエド・ペレス(Dayán Viciedo Pérez、1989年3月10日 - )は、キューバ・ビジャ・クララ州レメディオス出身のプロ野球選手(内野手、外野手)。右投右打。 経歴キューバ時代キューバでは同世代リーグでの圧倒的な成績(打率.405・5本塁打・18打点・14盗塁)を携え、2004-2005シーズンに15歳で国内リーグ"セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル"デビュー。 2007-2008シーズンまでナランハス・デ・ビジャ・クララに所属していた。 AA世代(15歳前後)の国際大会出場の頃から注目を集め始め、昔のオマール・リナレスと比較されるようになった[2]。同世代のジュニアナショナルチームの中では遊撃手であったが、三塁手と外野手を掛け持ちで務めて出場した。 2006年の第1回WBCの一次候補にも挙がるなど順調であった。 2006-2007シーズンにおいては90試合で打率.252・8本塁打・OPS.776と前のシーズンより下げ、不振に苦しんだ。 ホワイトソックス時代2008年5月にいかだに乗ってキューバから亡命し、アメリカ合衆国のフロリダ半島に上陸した後、ドミニカ共和国で居住権を確立した。同年12月12日に同じくキューバ出身の亡命選手であるホセ・コントレラス、アレクセイ・ラミレスが所属しているMLBのシカゴ・ホワイトソックスと4年総額1000万ドルで契約を結び[3]、入団した。 2009年7月のオールスター・フューチャーズゲームの世界選抜に選ばれた[4]。 2010年6月20日のワシントン・ナショナルズ戦で21歳にしてメジャーデビュー。 2011年はAAA級シャーロット・ナイツで119試合に出場し、打率.296・20本塁打・OPS.856を記録。AAA級のオールスターゲームにも選ばれた。8月26日にカルロス・クエンティンが故障者リスト入りしたためメジャーへ昇格。この年は29試合に出場し、1本塁打6打点1盗塁、打率.255だった。 2012年はホワイトソックスの正左翼手として147試合に出場し、打率.255・25本塁打・78打点・OPS.744を記録した。 2013年2月22日に1年契約に合意[5]。4月半ばには脇腹痛により、約3週間DL入りした[6]。この年も正左翼手として124試合に出場したが長打力は影を潜め、打率.265・14本塁打・56打点という成績に終わり、本塁打が10本以上減少した。守備力も低く、左翼を109試合で守って5失策・守備率.970・DRS - 5という内容だった。 2014年1月13日にホワイトソックスと280万ドルの1年契約に合意[7]。この年は中堅手であるアダム・イートンの活躍により、アレハンドロ・デアザが左翼の守備に就くことが多くなり、ビシエドは左翼手と右翼手を兼任することとなった。145試合に出場し、打率.231・21本塁打・58打点だった。本塁打数は2年ぶりに20本台に戻したが、代償として打率を大きく下げた。 2015年1月12日にホワイトソックスと440万ドルの1年契約に合意した[8]。しかし、1月28日に戦力外となり[9]、2月4日に解雇された。 ホワイトソックス退団後2015年3月1日にトロント・ブルージェイズとマイナー契約を結んだが[10][11]、31日に解雇となる[12]。6月11日にオークランド・アスレチックスとマイナー契約を結ぶが、7月30日に自由契約となる。8月1日にホワイトソックスとマイナー契約を結ぶが、オフに自由契約となる。結局、2015年はマイナーリーグの2球団(AAA級ナッシュビル・サウンズとAAA級シャーロット・ナイツ)で計66試合に出場、打率.287・8本塁打だった。 中日時代2015年12月1日、中日ドラゴンズが獲得を発表[13]。背番号は落合博満が監督時代に着けていた66。 2016年は開幕から3試合連続ソロ本塁打を放ったが、これは新外国人として史上初の快挙だった[14]。さらに2試合目、3試合目に猛打賞を記録し、開幕3連戦終了時点で12打数8安打 打率.667を記録した。4月17日の対阪神タイガース戦では来日初となるサヨナラ本塁打を放った[15]。5月7日の対読売ジャイアンツ5回戦(東京ドーム)で2回表に今村信貴から左越ソロ、右越3ランの2本の本塁打を放ち、1イニング2本塁打(史上19人目(21度目))を達成[16]。5月10日には、セ・リーグの3・4月度月間MVPを受賞した。外国人枠の野手による来日1年目開幕月での受賞はリーグ初[17]。このようにシーズン序盤は絶好調だったものの、徐々に調子を落としていき、15試合連続本塁打0などスランプに陥った。さらに8月13日の阪神戦(京セラドーム大阪)で守備機会中にセカンドの高橋周平と衝突し、左足首を痛めて登録抹消を余儀なくされた[18]。9月13日の広島東洋カープ戦で復帰したが、先発での出場はなく、もっぱら代打としての出場のみでシーズンを終了。球宴明けの本塁打数は3本にとどまった。11月22日、翌2017年シーズンの中日残留が発表された[19]。 2017年は交流戦実施期間中の6月16日、米国市民権取得のためチームを離れ、渡米した。当初は1週間程度で再来日できる予定であったものの、手続きが難航した影響で戦線復帰には1か月を要した[20][21]。背景にはドナルド・トランプ政権下での移民政策の転換があるとされる[22]。8月14日の東京ヤクルトスワローズ戦では近藤一樹が右腕にボールをぶつけて尺骨を骨折、シーズン中の復帰が絶望的となり[23]、結局以降の出場は無いままシーズンを終えた。 2018年は8月から急激に調子を上げて月間46安打を達成[24]し、村田修一の持つセ・リーグ記録に並んだ。そして、8月最後のナゴヤドームでの巨人戦で先発C.C.メルセデスから左前へ先制適時打を放ち、月間安打を「47」としてリーグ記録を更新した[25]。しかし、イチローの持つ月間最多安打のNPB記録であった48安打には、あと一打届かなかった。2018年シーズンの対広島戦は132試合消化時点で打率.404、18打点、5本塁打と、打率、打点、本塁打の全てにおいて、50打数以上を記録した選手の中ではチーム1位の対広島戦打撃成績[26]。9月以降も好調をキープし、首位打者と最多安打の2つのタイトルを獲得した[27]。また、セ・リーグ一塁手部門でベストナインを獲得した。 2019年4月12日対阪神戦で2本の本塁打を放ちチームは連勝を飾った[28]。27日対阪神戦、4回に3点本塁打で逆転し、連敗を止めた[29]。しかし、5月は本塁打が中々出ず[30]、31日に114打席ぶりの本塁打を放った[31]。9月4日対読売戦、4回に自打球を当て途中交代し、「左足関節内側の打撲」と診断された[32]。しかし、強行出場し[33]、全試合に出場、打率.315、18本塁打、93打点を記録し[34]、2年連続でセ・リーグ一塁手部門でベストナインに選出[35]された。 2020年は開幕戦となった6月19日対東京ヤクルトスワローズ戦、1回に先制2点本塁打を放った[36]。また、この本塁打はシーズン12球団最速となった[36]。その後は好調を維持するも7月21日の巨人戦で菅野智之から左肘に死球を受けたのを機に調子が低迷し[37]、シーズン終盤となる10月28日の阪神戦では、8回裏の守備で近本光司の放った打球に飛びついた際に左肩を脱臼[38]。そのままシーズンを終え、打率は規定打席に到達したシーズンでは自己ワーストとなる.267、本塁打数はチームトップながらも自己最少となる17本だった一方で、打点はチームトップかつリーグ4位となる82打点を記録し、勝負強さを発揮した。また、オフに中日の外国人選手としてはアレックス・オチョア以来16年ぶりとなるゴールデングラブ賞を一塁手部門で受賞した[注 1][39]。 2021年は3月6日の東北楽天ゴールデンイーグルスとのオープン戦で実戦復帰[40]。3月26日の開幕戦(対広島)では、8回表に逆転2点本塁打を放った[41]。5月18日の横浜DeNAベイスターズ戦から20試合連続安打を記録し[42]、交流戦では6月5日のオリックス・バファローズ戦でシーズン初の1試合2本塁打。12球団トップの打率.409を記録し、交流戦の首位打者を獲得した[43]。8月27日の巨人戦で4打点を記録し、レオ・ゴメスが持っていた球団外国人選手の通算打点記録を更新した[44]。最終的に130試合に出場、2年連続となるゴールデングラブ賞を受賞した。また、3年総額1000万ドル(約11億3000万円)で残留した[45]。 2022年は3月25日の対読売ジャイアンツ戦で、4回にソロ本塁打を放った。これで3年連続開幕戦での本塁打となった[46]。7月30日の広島戦では来日初の1試合3本塁打を記録した[47]。しかし最終的にシーズン本塁打は自己最少の14本に留まり、打率は.294だったものの併殺打はリーグワーストの20個だった[48]。 2023年は6月13日の対千葉ロッテマリーンズ戦で、6回にソロ本塁打を放ち、日米通算200号を達成した[49]。シーズンでは91試合に出場し、打率.244、6本塁打、23打点と低調な成績に終わった[50]。国内フリーエージェント権の取得条件を満たし、2024年からは日本人選手扱いとなる[50]。 2024年は15試合に出場し、打率.209(43打数9安打)、1本塁打、2打点で、6月以降は二軍調整が続いていた[51][52]。10月6日、球団が翌年の契約を更新しない通告をしたと発表[51]。 選手としての特徴打撃レベルスイングで広角にライナーを打ち分ける打撃を持ち味とし[53]、本塁打も全方向に打ち込んでいる[54]。速球への対応は平凡だが[55]、変化球を苦にしない[56]。ストライクゾーンの真ん中の球に滅法強い反面、内角や外角の球に弱い[57]。 多少のボール球でも振りに行くフリースインガーで[6]、キューバ人選手特有の早いカウントから積極的に打ちに行く姿勢は年々改善されているが[58]、ボール球を振る悪癖については「わかっていても難しい」と語っている[59]。また、好不調の波がある[60]。 NPB移籍後は特に阪神タイガースとの相性がよく、2016年シーズンは「打率.377(77打数29安打)、7本塁打(22試合)、20打点」で、特に本塁打はシーズンのおよそ3分の1を阪神戦で量産している[61]。来日当初に懸念されていたフリースインガーぶりは改善傾向を示しており、2016年の「PA/K」(1三振までに掛かる打席数)は「6.93」、「BB/K」(四球と三振の割合から打者の選球眼を見る指標の一つ)は「0.65」で、これはセ・リーグの外国人打者としてはいずれもリーグ1位(全体では「PA/K」がリーグ8位、「BB/K」がリーグ12位)の成績である。また、長打力を示す指標であるIsoPは2016年以後の2シーズンで「0.212→0.202」と高い水準で推移している[62][63]。広角に打ち分けることができるスプレーヒッターでもあり、2016年は左方向、右方向に9本塁打ずつをそれぞれ放っている。その一方で、3月・4月は「打率.347(98打数34安打、9本塁打)」を記録したが、交流戦は「打率.182(66打数12安打、2本塁打)」、球宴明け以後は「打率.219(91打数20安打、3本塁打)」という成績に終わり、懸念されていた好不調の波の激しさを払拭することができない結果に終わった[64][65]。 対左投手をとても得意にしており、2016年は「140打席、打率.303、8本塁打、OPS.944(対左投手のOPSはリーグ5位)」、2017年は「63打席、打率.339、8本塁打、OPS1.161(対左投手のOPSはリーグ1位相当)」と、高い水準で推移している[62][63]。また、ハイボールヒッターであり、2016年は22本塁打のうち高めの球が12本塁打、2017年は18本塁打のうち高めの球が10本塁打であった[62][63]。 守備・走塁守備ではキューバ時代とメジャーデビュー当初は主に三塁手として起用されていたが、2011年から外野手に転向。2012年に左翼手リーグ2位の13補殺を記録した[66]強肩を備えるが[67]、外野守備は敏捷性に欠け守備範囲が狭く[60]、メジャー通算のDRSとUZR共に平均を大きく下回る。一塁手での出場経験もあるが、一塁守備もメジャー通算のDRSとUZR共に平均を下回る。守備の動きの鈍さはキューバ時代から指摘され、ビジャ・クララやキューバ代表で監督を務めていたビクトル・メサからは「彼は優れた打撃技術を持っているが、同時に年齢の割に驚くほど守備の動きが鈍い」と評されていた[68]。 NPB移籍後は、外野手登録ながら一塁手としての起用が主体(2016年は、一塁手として100試合、左翼手として8試合に先発出場)となり、2018年より内野手登録となる。来日後は守備が上達したと指摘されており[69]、伊東勤ヘッドコーチからは「ハンドリングが素晴らしい。難しいワンバウンドした球でも器用にミットにおさめる」と、京田陽太からは「ビシエドが一塁にいると安心して投げられる」と評されている。2020年シーズンは僅か1失策のみでゴールデングラブ賞を受賞している[70]。 人物
詳細情報年度別打撃成績
年度別打撃成績所属リーグ内順位
年度別守備成績
タイトル
表彰
記録MLB
NPB
MLB/NPB通算
背番号
登場曲
脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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