スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス・マグヌス
スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス・マグヌス(ラテン語: Spurius Postumius Albinus Magnus、生没年不詳)は紀元前2世紀中頃の共和政ローマの政務官。紀元前148年にコンスル(執政官)を務めた。ポストゥミア街道の建設者として名を残している。 出自アルビヌス・マグヌスはパトリキであるポストゥミウス氏族の出身で、共和政ローマ建国5年目の紀元前505年にはプブリウス・ポストゥミウス・トゥベルトゥスが執政官に就任するなど、古くから高官を出していた。カピトリヌスのファスティによれば、父も祖父もプラエノーメン(第一名、個人名)はスプリウスである[1]。祖父スプリウスは紀元前242年の執政官アウルス・ポストゥミウス・アルビヌス の息子であると思われる[2]。父スプリウスは資料に登場しないことから、高位官職に就任する前に死去したと推定される[3]。 経歴マグヌスに関する現存する最初の資料は、紀元前148年に執政官に就任したときである。当時のウィッリウス法の要求事項から、現代の研究者は彼が遅くとも紀元前151年までにはプラエトル(法務官)を務めたと考えている[4]。ちょうどこの時期、高位官職の多くをポストミウス氏族が占めていた[3]。 マグヌスの同僚のプレプス(平民)執政官はルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌスであった[5]。当時は第三次ポエニ戦争の最中であったが、くじ引きの結果カルタゴに派遣されるのはカエソニヌスとされ、マグヌスはイタリアに残ることになった。マグヌスはゲヌア(現ジェノヴァ)からクレモナへの街道を建設し、さらにアクイレイアまで伸ばした。これによってガリア・キサルピナ全体をローマ街道が貫いたことになる。この街道はポストゥミア街道と呼ばれることになる[3]。 紀元前146年、ポストゥミウス・アルビヌス家の誰かが、アカエア戦争終了後にルキウス・ムンミウスを補助してギリシアの秩序を回復するための、10人の使節に選ばれている[6]。既にキケロの時代(約100年後)には、この人物が特定できなかったようで、ティトゥス・ポンポニウス・アッティクスへの手紙の一つで、これが誰かを聞いている[7]。現代の研究者の意見も一致していない。あるものはマグヌスと言い、アウルス・ポストゥミウス・アルビヌスとするものもいる。また、二人共使節に選ばれたとする説もある[3]。 キケロは、セルウィウス・スルピキウス・ガルバとガイウス・ラエリウス・サピエンスが雄弁家として名を馳せた時代において、マグヌスを「それなりの弁論家」と評している。またキケロは紀元前46年に『ブルトゥスあるいは弁論家列伝』を執筆しているが、その中で「スプリウス・アルビヌスの演説は沢山残っている」と記している[8]。 子孫ティベリウス・センプロニウス・グラックス(グラックス兄)の仲間でありライバルであるされる、スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌスは[9][10]、マグヌスの息子と思われる[2]。 脚注参考資料古代の資料
研究書
関連項目
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