ジンポー語 (ジンポーご、英語 : Jinghpaw, Jingpho ) はミャンマー 有数の民族の1つであるカチン族 および中国 国内に住むチンポー族 によって話される言語の1つである。この言語はカチン族の共通語として機能していることから、カチン語 (Kachin) という名称でも知られる[ 1] 。
話者の分布
話者の大部分はミャンマー北部に位置するカチン州 およびシャン州 北部に居住する。また、話者の一部は中華人民共和国 雲南省 徳宏タイ族チンポー族自治州 およびインド のアッサム州 とアルナーチャル・プラデーシュ州 にも居住する。特に中国の方言は景頗語 (チンポー語)、インドの方言はシンポー語 (Singpho ) という名称で知られる。エスノローグ によるとジンポー人の人口はおよそ90万人である。
カチン族とジンポー語
ジンポー語はカチン族 (Kachin ) の主要言語である。カチン族はミャンマーのカチン州 を中心に居住するミャンマー有数の民族の1つである。カチン族が用いる言語は多様であり、ジンポー語の他に、ザイワ語 (Zaiwa )、ロンウォー語 (Lhaovo )、ラワン語 (Rawang )、リス語 (Lisu ) などがある[ 2] 。この、民族と言語の一対多対応を示すカチンにおいては多言語 使用は珍しくない。カチン族 の共通語としてのジンポー語は、カチンの人々を結びつける一つの役割を担っている。
系統
ジンポー語は系統的にシナ・チベット語族 (Sino-Tibetan ) チベット・ビルマ語派 (Tibeto-Burman ) に属する言語であり、中国語 、ビルマ語 、チベット語 などの言語と親縁性を示す[ 3] [ 4] 。
方言
ジンポー語は地理的に広い分布を示すため、多くの方言を持つ。比較言語学的証拠はジンポー語方言が大きく南部方言群と北部方言群に分かれることを示している[ 5] 。ミャンマーのカチン州 の州都ミッチーナー で話されるジンポー語と中国の景頗語 は前者に属し、比較的近い関係にある。後者はインドのシンポー語 とミャンマーのプータオ(Putao ) 近郊に分布するドゥレン方言 を含む。
文字
ジンポー語はラテン文字 による正書法を持つ。同正書法は米国バプテスト教会 の宣教師オーラ・ハンソン (Ola Hanson ) により1890年代に考案された。ジンポー語は東南アジア山岳部の民族のうち最も早くに文字を手に入れた言語の一つであり、また、同正書法は現在もカチン族の間で広く普及している[ 6] 。20世紀以降、カチン族の他の言語の正書法の多くもジンポー語正書法に基づいて考案された。
音韻論
最大の音節構造はCCVCである。頭子音が両唇音または軟口蓋音のとき、介子音として /r/ および /y/ が後続しうる。末子音には /p, t, k, ʔ, m, n, ŋ, w, y/ が現れうる。5つの基本母音と31の子音音素を持ち、4つの声調 を持つ音節声調言語である[ 7] 。
母音
母音 は短母音a i u e aw[ɔ] ă[ə][ 8] と二重母音ai oi[ɔɪ] wi[ui] auからなる。短母音はăを除き語末では長く発音する[ 9] 。
子音
子音 は以下の通りである。
可能な子音結合 は
pr br hpr py
by hpy my
kr gr hkr
ky gy hky ny
のいずれかである。
末子音は-p[p ̚] -t[t ̚] -k[k ̚] -m -n -ngと、正書法上表記されない[ʔ]であり、p, t, kは内破音である。また、成節鼻音と呼ばれる語頭のnを持つ語がみられる(例:nta「家」)。このため、ngとn-gが対立し、例えばngu「言う」[ŋu] と、n-gu「米」[n̩ gu] は発音が異なる。
声調
正書法では表記されないが高平調/上昇調[55]~[35] 中平調[33] 低く下降するピッチ[31] 高いピッチから急激に下降する声調[51]の声調がある。
ただしăは声調の対立を持たない。
形態論
主要な語形成手段 として、複合、重複、接辞付加、ゼロ派生などが認められる。
複合:shata「月」+pan「花」→「ひまわり」
重複:jau「早い」→ jau jau「早く」
接辞:sha「食べる」→ shat「ご飯」
ゼロ派生:tsip「巣」→tsip「巣を作る」
また、ジンポー語の動詞に関わる文法範疇 として、相 、人称 、数 、法 及び方向 がある。
以下の表は、主語の人称と数に一致 する動詞接辞を示したものである。未完了相 と完了相では動詞の後に付く接辞が異なる。また、命令文や疑問文では、これとは異なる人称接辞が出現する。
ジンポー語の主語人称接辞
未完了
完了
一人称単数
n̩31 ŋai33
săŋai33
二人称単数
n̩31 tai33
sin33 tai33
三人称単数
ai33
sai33
一人称複数
kaʔ31 ai33
săkaʔ55 ŋai33
二人称複数
mătai33
măsin33 tai33
三人称複数
maʔ31 ai33
măsai33
これらの標識は動詞の後に付く。
(1)
ŋai33
lai31 ka̠33
ʃărin55 n̩31 ŋai33
私(は)
(書物を)
学ぶ
「私は学習する」
(西田 1988: 1183)
(2)
khji33
tʃoŋ31
luŋ31 sai33
彼(は)
学校(に)
行った
「彼は学校に行った。」
(西田 1988: 1183)
主語の他に、目的語の人称も接辞を通して示される。また、主語ないし目的語の所有者 の人称が動詞に標示される特殊な構文も存在する。ただし、現代のジンポー語では、人称一致を持たない言語との接触 の結果、これらの接辞がほぼ消失している。
方向接辞
クキ・チン諸語 のような他のチベット・ビルマ諸語 と同じく、動作の方向を表す方向接辞 が動詞に付く。ジンポー語の方向接辞には去辞-sと来辞-rがあり、それぞれ人称接辞の前に現れる。動詞sa「行く、来る」は方向接辞と共に用いることで、動作の方向が指定される。
(3)
sa-s-ìt-Ø.
行く/来る-(去辞)-(2人称単数.命令)-未完了
「行きなさい。」
(大塚・倉部 2017: 349)
(4)
sa-r-ìt-Ø.
行く/来る-(来辞)-(2人称単数.命令)-未完了
「来なさい。」
(大塚・倉部 2017: 349)
統語論
動詞末尾型言語 である。文中における名詞句の役割は格助詞により示される。主語と目的語の相対的有生性 に従って目的語の格標示 が決まる。他の東南アジア大陸部諸語 と同様、動詞連続 を発達させている。
語彙
人称代名詞:ngai「私」、nang「あなた」、shi「彼・彼女」、anhte「私たち」、nanhte「あなたたち」、shanhte「彼ら」
指示詞:ndai「これ」、dai「それ」、wora「あれ」(話者と同じ位置を指して)、htora「あれ」(話者より高い位置)、lera「あれ」(話者より低い位置)
疑問語:hpa「何」、kadai「誰」、gara「どこ」、galoi「いつ」、gade「どれくらい」、ganing「どのように」
数詞:langai「1」、lahkawng「2」、masum「3」、mali「4」、manga「5」、kru「6」、sanit「7」、matsat「8」、jahku「9」、shi「10」、hkun「20」
身体部位:baw「頭」、myi「目」、na「耳」、n-gup「口」、kara「髪」、du「首」、lata「手」、lagaw「足」、lamyin「爪」、hkum「体」
親族名称:nu「母」、wa「父」、hpu「兄」、na「姉」、nau「弟、妹」、sha「子供」、ji「祖父」、dwi「祖母」、shu「孫」
格助詞:hpe「を」、kaw「で」、hta「で」、de「へ」、kaw na「から」、hte「と」、a「の」、na「の」
色彩:hpraw「白い」、chyang「黒い」、hkyeng「赤い」、tsit「緑の」、mut「青い」
借用語
カチン族はタイ族 と長い間共生関係にあった。カチン族の一部がタイ族になる事例は当該地域の民族流動性の事例の1つとしてよく知られる[ 15] 。カチン族とタイ族の緊密な関係は借用語として言語にも反映されている。ミャンマーの現代の公用語であるビルマ語の多くも本来はシャン語を介してカチン諸語に借用されたと考えられる[ 16] 。
あいさつ
kaja ai i「元気ですか」
chyeju kaba sai「ありがとう」
shat sha ngut sai i「ご飯を食べましたか」
wa sana yaw「またね」
脚注
^ Hanson, Ola (1896) A Grammar of the Kachin Language. Rangoon: American Baptist Mission Press.
^ Kurabe, Keita (2015) Jinghpaw and related languages. In Kenneth VanBik (ed.) Continuum of the Richness of Languages and Dialects in Myanmar, 71-101, 143-168. Yangon: Chin Human Rights Organization.
^ Benedict, Paul K. (1972) Sino-Tibetan: A Conspectus. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 978-0521118071
^ Matisoff, James A. (2003) Handbook of Proto-Tibeto-Burman: System and Philosophy of Sino-Tibeto-Burman Reconstruction. Berkeley: University of California Press. ISBN 978-0520098435
^ Kurabe, Keita (2014) The reflexes of the Proto-Jingpho glides in modern Jingpho dialects.Linguistics of the Tibeto-Burman Area 37(2): 181-197. E-ISSN 2214-5907
^ Kurabe, Keita and Masao Imamura (2015) Orthography and vernacular media: The case of Jinghpaw-Kachin. IIAS Newsletter (Leiden) 75: 36-37.
^ Kurabe, Keita (2017) Jinghpaw. In Graham Thurgood and Randy J. LaPolla (eds.) The Sino-Tibetan Languages, 993-1010. London & New York: Routledge. ISBN 978-1138783324
^ ただし、2音節語の第1音節に現れる母音ăであることが多いため、単にaと表記されることが多い
^ https://publication.aa-ken.jp/jinghpaw_grammar_ilc2019.pdf
^ kaba「大きい」/gabà/など一部の語では弱化母音の直前のkの発音はgである
^ Leach, Edmund R. (1954) Political Systems of Highland Burma: A Study of Kachin Social Structure. London: G. Bell and Sons.
^ KURABE, Keita (2017). “A Classified Lexicon of Shan Loanwords in Jinghpaw” . アジア・アフリカの言語と言語学 (東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所) 11 : 129-166. hdl :10108/89212 . ISSN 2188-0840 . NAID 120006319232 . https://hdl.handle.net/10108/89212 .
参考文献
西田, 龍雄 著「カチン語」、亀井孝, 河野六郎, 千野栄一 編『言語学大辞典 第一巻 世界言語篇(上)あ-こ』三省堂、東京、1988年、1176-1181頁。
戴庆夏・徐悉艰(1992)《景颇语语法》北京:中央民族学院出版社.
Hanson, Ola(1896) A Grammar of the Kachin Language. Rangoon: American Baptist Mission Press.
Hanson, Ola(1906) A Dictionary of the Kachin Language. Rangoon: American Baptist Mission Press.
Hanson, Ola(1913) The Kachins: Their Customs and Traditions. Rangoon: American Baptist Mission Press.
Hertz, Henry F.(1895) A Practical Handbook of the Kachin or Chingpaw Language. Rangoon: Superintendent Printing Burma.
Kurabe, Keita. 2013. Kachin folktales told in Jinghpaw. Collection KK1 at catalog.paradisec.org.au [Open Access]. https://doi.org/10.4225/72/59888e8ab2122
Kurabe, Keita(2016) A grammar of Jinghpaw, from northern Burma. Ph.D. dissertation, Kyoto University.
倉部, 慶太「ジンポー語の2つの民話資料と文法注釈 」『言語記述論集』第8巻、2016年、1–20面。
Kurabe, Keita(2017) Jinghpaw. In Graham Thurgood and Randy J. LaPolla(eds.) The Sino-Tibetan Languages, 993-1010. London & New York: Routledge. ISBN 978-1138783324
大塚, 行誠、倉部, 慶太「ティディム・チン語とジンポー語における方向接辞の対照 」『日本言語学会第155回大会予稿集』第1巻、2017年、348-353面。
Kurabe, Keita. 2017. Kachin culture and history told in Jinghpaw. Collection KK2 at catalog.paradisec.org.au [Open Access]. https://doi.org/10.26278/5fa1707c5e77c
Leach, Edmund R.(1954) Political Systems of Highland Burma: A Study of Kachin Social Structure. London: G. Bell and Sons. ISBN 978-1597406031
徐悉艰等(編)(1983)《景汉辞典》云南:云南民族出版社.
外部リンク