ジョージ・ボイル (第4代グラスゴー伯爵)第4代グラスゴー伯爵ジョージ・ボイル(英語: George Boyle, 4th Earl of Glasgow GCH FRS FSA、1765年9月18日 – 1843年7月6日)は、イギリスの政治家、スコットランド貴族。トーリー党に所属し[1]、スコットランド貴族代表議員(在任:1790年 – 1815年[2])、レンフルーシャー統監(在任:1810年 – 1820年)、エアシャー統監(在任:1820年 – 1842年)を歴任した[3]。1775年までボイル卿の儀礼称号を使用した[1]。 生涯第3代グラスゴー伯爵ジョン・ボイルと妻エリザベス(Elizabeth、旧姓ロス(Ross)、1791年10月17日没、第13代ロス卿ジョージ・ロスの娘)の次男(長男ジョンは夭折)として、1765年9月18日に生まれた[2]。1775年3月7日に父が死去すると、グラスゴー伯爵位を継承した[1]。1776年から1780年までイートン・カレッジで教育を受けた[1]。 1788年5月29日にロンドン考古協会フェローに[4]、1788年6月5日に王立協会フェローに選出された[5]。1817年から1819年までグラスゴー大学総長を務めた[1][2]。 1790年イギリス総選挙でスコットランド貴族代表議員に選出され、1815年までを務めた後[2]、1815年8月11日に連合王国貴族であるレンフルーシャーにおけるホークヘッドのロス男爵に叙された[1][6]。1810年4月11日から1820年初までレンフルーシャー統監を務め、1820年1月7日から1842年8月15日までエアシャー統監を務めた[3]。 貴族院ではトーリー党に属し[1]、1820年にジョージ4世妃キャロライン・オブ・ブランズウィックへの痛みと罰法案に賛成票を投じたほか[7]、1829年に首相の初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーがローマ・カトリック信徒救済法(カトリック解放)の立法に踏み切ったときに法案を支持した[1]。1830年、ロイヤル・ゲルフ勲章グランド・クロスを授与された[1]。その後、1831年10月に第1回選挙法改正の第2次法案に反対票を投じた[8]。 1843年7月6日にエディンバラで死去、長男ジョンに先立たれたため次男ジェームズが爵位を継承した[1]。 家族1788年3月7日、エディンバラでオーガスタ・ヘイ(Augusta Hay、1766年4月25日 – 1822年7月23日、第15代エロル伯爵ジェイムズ・ヘイの娘)と結婚[1]、3男3女をもうけた[2]。
1806年に妻オーガスタの母方の祖父サー・ウィリアム・カー(Sir William Carr)が死去すると、オーガスタがノーサンバーランドにあるイータルの領地を継承、その死後は息子ジェームズ(のちの第5代グラスゴー伯爵)が継承した[2]。1869年にジェームズが死去すると、その妹オーガスタ(1876年没)が継承した[2]。 1824年11月13日にジュリア・シンクレア(Julia Sinclair、1796年6月16日 – 1868年2月19日、初代準男爵サー・ジョン・シンクレアの娘)と再婚、1男1女をもうけた[2]。
出典
外部リンク
|