アラン・ラムゼー による肖像画。
第6代コヴェントリー伯爵 ジョージ・ウィリアム・コヴェントリー (英語 : George William Coventry, 6th Earl of Coventry 、1722年 4月26日 – 1809年 9月3日 )は、イギリス の貴族、政治家。1744年から1751年まで庶民院 議員を務めた[ 1] 。
生涯
第5代コヴェントリー伯爵ウィリアム・コヴェントリー と妻エリザベス(Elizabeth 、旧姓アレン(Allen )、1738年11月23日没、ジョン・アレンの娘)の次男(長男トマス・ヘンリー は1744年に死去)として、1722年4月26日に生まれた[ 1] 。洗礼式で初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホリス が名親を務めた[ 2] 。1730年から1737年までウィンチェスター・カレッジ で教育を受けた後[ 2] 、1737年7月6日にオックスフォード大学 ユニヴァーシティ・カレッジ に入学、1739年11月20日にM.A. の学位を修得した[ 3] 。
1744年にブリッドポート選挙区 (英語版 ) の現職議員だった兄トマス・ヘンリー が死去すると、父の影響力により補欠選挙で当選した[ 4] 。1747年イギリス総選挙 では西インド 出身のジョン・フレデリック・ピニー が立候補したため、コヴェントリーはピニーを「20万ポンドの財布」(a purse of two hundred thousand pounds )と形容して、選挙戦を避けてカウンティ選挙区のウスターシャー選挙区 (英語版 ) に鞍替えした[ 5] 。ウスターシャーでは無投票で当選した[ 6] 。議会では1745年10月に1745年ジャコバイト蜂起 の原因調査動議に賛成票を投じ、1746年4月にハノーファー兵への資金援助に反対票を投じるなど野党の立場にあった[ 2] 。
1751年3月18日に父が死去すると、コヴェントリー伯爵 位を継承した[ 1] 。父の死と同日にニューカッスル公爵に手紙を書き、父が務めていたウスターシャー統監 (英語版 ) の官職への就任を申請して成功し[ 2] 、同年5月7日から1808年11月23日まで務めた[ 7] 。1752年11月22日にジョージ2世 の寝室侍従 (英語版 ) に任命され、1760年にジョージ3世 が即位したときも留任したが、1770年1月16日に辞任した[ 8] 。
クルームの教会にある、第6代コヴェントリー伯爵の記念牌。2015年撮影。
1809年9月3日にピカデリー で死去、息子ジョージ・ウィリアム が爵位を継承した[ 1] 。
家族と私生活
1人目の妻マリア (英語版 ) 、1760年。
1752年3月5日、マリア・ガニング(Maria Gunning 、1732年8月15日洗礼 – 1760年9月30日、ジョン・ガニングの娘)と結婚[ 1] 、1男2女をもうけた[ 9] 。
2人目の妻バーバラ。アンゲリカ・カウフマン 画。
1764年9月27日、バーバラ・シンジョン(Barbara St John 、1804年11月25日没、第11代ブレッツォのシンジョン男爵ジョン・シンジョン の娘)と再婚[ 1] 、2男1女をもうけた[ 2] 。
ジョン(1765年6月20日 – 1829年11月12日) - 1788年、アン・クレイトン(Anne Clayton 、1809年8月没)と結婚、子供あり。1809年8月、アンナ・マリア・ポープ(Anna Maria Pope 、1837年3月28日没、フランシス・イーヴスの娘、エベニーザー・ポープの未亡人)と再婚[ 9]
トマス・ウィリアム (英語版 ) (1778年12月24日 – 1816年4月) - クラーク氏(Clarke 、1806年12月没)と結婚、子供あり[ 9]
マリアが社交界の花形だったのに対し、バーバラはロンドン での喧騒より郊外を好み、コヴェントリー伯爵と気が合ったという[ 11] 。バーバラはコヴェントリー伯爵が趣味とした植物収集も支持した[ 11] 。
クルーム・コート
クルーム・コート (英語版 ) 、2016年撮影。
父の存命中より邸宅クルーム・コート (英語版 ) の大規模改築を計画しており、1751年の父の死で爵位を継承すると即座に実施に移した[ 11] 。この改築にははじめランスロット・ブラウン 、ついでロバート・アダム が招聘され、1790年代末から1800年代初には最後の工事にジェームズ・ワイアット が招聘され、合計で21世紀初の3,500万ポンドにあたる金額が費やされた[ 11] 。
出典
^ a b c d e f g Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary ; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 474–475.
^ a b c d e Lea, R. S. (1970). "COVENTRY, George William, Visct. Deerhurst (1722-1809), of Croome Court, Worcs." . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年9月12日閲覧 。
^ Foster, Joseph , ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (A to D) (英語). Vol. 1. Oxford: University of Oxford. p. 306.
^ Lea, R. S. (1970). "Bridport" . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年9月12日閲覧 。
^ Lea, R. S. (1970). "PINNEY, John Frederick (1719-62), of Racedown, nr. Bridport, Dorset." . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年9月12日閲覧 。
^ Lea, R. S. (1970). "Worcestershire" . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年9月12日閲覧 。
^ Sainty, John Christopher (1979). List of Lieutenants of Counties of England and Wales 1660–1974 (英語). London: Swift Printers (Sales).
^ Bucholz, Robert Orland, ed. (2006). "Index of officers: Ci - Co" . Office-Holders in Modern Britain (英語). Vol. 11. London: University of London. pp. 855–900.
^ a b c d e Burke, Sir Bernard ; Burke, Ashworth P., eds. (1915). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (77th ed.). London: Harrison & Sons. p. 532.
^ Brooke, John (1964). "FOLEY, Edward (1747-1803), of Stoke Edith, Herefs." . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年9月12日閲覧 。
^ a b c d "6th Earl of Coventry" . National Trust (英語). 2021年9月12日閲覧 。
関連項目
外部リンク