ゴドフリー・ネラー による肖像画、1720年。
第5代コヴェントリー伯爵 ウィリアム・コヴェントリー (英語 : William Coventry, 5th Earl of Coventry PC 、1676年 ごろ – 1751年 3月18日 )は、グレートブリテン王国 の貴族、政治家。1708年から1719年まで庶民院 議員を務めた[ 1] 。
生涯
ウォルター・コヴェントリー(Walter Coventry 、1692年没、ウォルター・コヴェントリーの息子)と妻アン(Anne 、旧姓ホルクーム(Holcombe )、ハンフリー・ホルクームの娘)の息子として[ 1] 、1676年ごろに生まれた[ 2] 。1692年に父が死去すると、その遺産を継承した[ 2] 。1693年4月13日、ケンブリッジ大学 ペンブルック・カレッジ に入学した[ 3] 。
1708年イギリス総選挙 でブリッドポート選挙区 (英語版 ) から出馬して当選を果たし、1710年 、1713年 、1715年 の総選挙でも再選した[ 4] [ 5] 。庶民院 ではホイッグ党 として行動して、1710年にヘンリー・サシェヴェレル (英語版 ) の弾劾に賛成、1711年12月に「スペインなくして講和なし 」の動議に賛成、1713年6月にフランスとの通商法案に反対、1714年3月にリチャード・スティール (英語版 ) の議会追放に反対[ 2] 、1715年以降のホイッグ党政権期では常に与党に同調した[ 6] 。
初代エグモント伯爵ジョン・パーシヴァル によれば、コヴェントリーはホイッグ党政権期に貴族院秘書官 (英語版 ) の官職就任を求めたことがあった[ 6] 。コヴェントリーが1,000ポンド払うというと、ロバート・ウォルポール は翌朝に金を持ってくるよういったが、翌日に金を持ってきたコヴェントリーに対しさらに500ポンド追加しなければならないと返答した[ 6] 。コヴェントリーが翌日に1,500ポンドを持ってくると、同じく貴族院秘書官の官職を求めたウィリアム・クーパー(William Cowper )が2,000ポンド出すと言ったため、ウォルポールはコヴェントリーに同額の支払いを求め、コヴェントリーが怒って拒否すると秘書官の職がクーパーに与えられた[ 6] 。結局、コヴェントリーは1717年から1719年まで宮廷職のClerk of the Green Cloth を務めるに留まった[ 1] 。
1719年10月27日に遠戚にあたる第4代コヴェントリー伯爵ギルバート・コヴェントリー が死去すると、コヴェントリー伯爵 位の特別残余権(special remainder )に基づき爵位を継承した[ 1] 。同年12月16日にウスターシャー統監 (英語版 ) に、12月21日にウスターシャー首席治安判事 (英語版 ) に任命され、いずれも1751年に死去するまで務めた[ 7] [ 8] 。1720年3月22日、枢密顧問官 に任命された[ 1] 。
貴族院 では常に首相ロバート・ウォルポール に反対して野党トーリー党 に同調した[ 1] 。ブリッドポート選挙区では影響力を確立して、1747年まで1議席を掌握した[ 5] 。1741年イギリス総選挙 ではコヴェントリー伯爵の指名者が2議席ともに勝ち取ったが、1747年イギリス総選挙 では2議席ともに得られなかった[ 5] 。また、カウンティ選挙区であるウスターシャー選挙区 (英語版 ) にも影響力があり、1722年 と1727年 ではトーリー党 と妥協して1議席ずつ指名したが、1734年イギリス総選挙 では野党に転じていたため、ホイッグ党候補の第4代準男爵サー・トマス・リトルトン が十分な支持を得られなかったと感じて選挙戦から撤退、トーリー党が2議席を占める結果になった[ 9] 。1741年イギリス総選挙 では選挙戦の失策によりトーリー党第2代フォーリー男爵トマス・フォーリー の推す候補2名が当選したが、1747年イギリス総選挙 ではトーリー党候補のうち1名が立候補辞退したため、息子ジョージ・ウィリアム が無投票で当選した[ 9] 。
1740年5月14日、オックスフォード大学 よりD.C.L. (英語版 ) の学位を授与された[ 10] 。
1751年3月18日に死去、長男トマス・ヘンリー に先立たれたため次男ジョージ・ウィリアム が爵位を継承した[ 1] 。
家族
1720年、エリザベス・アレン(Elizabeth Allen 、1738年11月23日没、ジョン・アレンの娘)と結婚、3男をもうけた[ 1] [ 2] 。
出典
^ a b c d e f g h i j Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary ; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 473–474.
^ a b c d Watson, Paula (2002). "COVENTRY, William (c.1676-1751), of London" . In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline ; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年9月11日閲覧 。
^ "Coventry, William. (CVNY693W)" . A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
^ Watson, Paula (2002). "Bridport" . In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline ; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年9月11日閲覧 。
^ a b c Lea, R. S. (1970). "Bridport" . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年9月11日閲覧 。
^ a b c d Lea, R. S. (1970). "COVENTRY, William (?1676-1751), of Croome Court, Worcs." . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年9月11日閲覧 。
^ Sainty, John Christopher (1979). List of Lieutenants of Counties of England and Wales 1660–1974 (英語). London: Swift Printers (Sales).
^ Sainty, John Christopher (November 2002). "Custodes Rotulorum 1660-1828" . Institute of Historical Research (英語). 2019年7月13日時点のオリジナル よりアーカイブ。2021年9月4日閲覧 。
^ a b Lea, R. S. (1970). "Worcestershire" . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年9月12日閲覧 。
^ Foster, Joseph , ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (A to D) (英語). Vol. 1. Oxford: University of Oxford. p. 306.
^ Lea, R. S. (1970). "COVENTRY, Hon. John Bulkeley (1724-1801), of Nether Burgate, Fordingbridge, Hants." . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年9月11日閲覧 。
外部リンク