ジャン=フランソワ・ル・スュール
ジャン=フランソワ・ル・スュール(ル・シュール、ル・シュウール、ル・スール、Jean-François Le Sueur もしくは Lesueur [ʒɑ̃ fʁɑ̃swa lə sɥœʁ] 1760年2月15日 - 1837年10月6日)は、フランスの作曲家。 生涯ル・スュールはアブヴィルに近いドゥルカの小さな村、プレシエル(Plessiel)に生まれた。一家はピカルディで長く暮らしていた家族で、画家のウスタシュ・ル・スュールは彼の大おじにあたる。ル・スュールははじめ、アブヴィルの大学の教会で聖歌隊に入り、続いて入ったアミアンの大聖堂で音楽の勉強を推し進め、セーの大聖堂では合唱指揮者に任命された。彼はパリへと赴き、サン=イノサン(Saints-Innocents)教会で合唱指揮者をしていたニコラ・ロゼに和声法を師事した。ル・スュールはディジョン(1779年)、ル・マン(1782年)、トゥール(1783年)と各地の職を歴任した後、ロゼの跡を継いでサン=イノサンでのポストに就いた。さらに1786年には選考の末、パリのノートルダム大聖堂の音楽監督に就任した[1]。 ル・スュールは被昇天祭に管弦楽を導入するという改革を実行し、大きな成功を収めた。メインの祭典における彼の宗教曲の演奏会は、人が教会の外に溢れるほどの超満員となったが、聖職者の団体からの抵抗を受けるようになってしまった。彼はこれに応える形で「Exposé d'une musique imitative et particulière à chaque solennité」(1787年)という小冊子を発行した。フランス財政危機の折には、大聖堂の修道士会が音楽予算を減額することを決定したが、これによってル・スュールは専門にしていた重要な音楽ミサを諦めざるを得なくなり、彼自身も職を辞すことになった[1]。 ル・スュールは1788年から1792年にかけてはロンドンで暮らしており、フランス革命のさなかのパリへと帰国してフェドー劇場で3つのオペラの公演を成功させた。「La Caverne, ou le Repentir」(1793年)、ジャック=アンリ・ベルナルダン・ド・サン=ピエールの非常に有名な小説「」「ポールとヴィルジニー」に着想を得た「Paul et Virginie, ou le Triomphe de la vertu」(1794年)、そして古典的な「Télémaque dans l'île de Calypso, ou le Triomphe de la sagesse」(1796年)である。 ル・スュールは1793年11月21日に国防軍学校の教授に任用され、パリ音楽院が新たに出来ると監督官(Inspecteur)に採用された。メユール、ラングレ、ゴセック、カテルがいる中、ル・スュールの仕事は基礎原理とソルフェージュの指導に限られた。パリのオペラ座で自作オペラ「Ossian, ou Les bardes」、「La mort d'Adam」が上演できず、彼は「Projet d'un plan général de l'instruction musicale en France」という激しい内容の小冊子を発行して音楽院とその教育法、院長を攻撃した。そして1802年9月23日に免職された[1]。 公的な職がなくなり、ル・スュールは貧しい暮らしに陥り始めていた。1804年にナポレオンが、パイジエッロの後任として彼をテュイルリー宮殿の教会楽長に据えることになった。こうして彼は最も有名な作品である「Ossian ou Les bardes」を上演できるようになり、オペラ座でも大きな成功となり、皇帝からも大好評を得た。ナポレオンは、このお気に入りとなったオペラの作者をレジオンドヌール勲章に叙した。ル・スュールはナポレオンの戴冠式のために凱旋行進曲を作曲しており、パイジエッロのミサ曲とかつての師であるロゼの「Vivat」を指揮している。1813年、彼はアンドレ・グレトリに代わって芸術アカデミーの会員となった[1]。 王政復古の時期には、ル・スュールはロイヤル・チャペルの作曲家、オペラ座管弦楽団の指揮者となった。1818年の初頭から、彼はパリ音楽院で作曲を教えるようになった。長年の教員生活の間に、彼の門下からはベルリオーズ、トマ、グノー、ベゾッツィ、マルモンテルらが輩出している[1]。 ル・スュールはパリで77年の生涯を閉じた[2]。 作品オラトリオ
オペラ
脚注出典
参考文献
外部リンク |