ジジ・グライス
ジジ・グライス(Gigi Gryce、1925年11月28日 - 1983年3月14日)は、アメリカ合衆国のジャズ・ミュージシャン。本名はジョージ・ジェネラル・グライス・ジュニア(George General Grice, Jr.)。フロリダ州ペンサコラ出身。 多才なマルチプレイヤーとして知られ、サクソフォーンやクラリネット、フルートを演奏するかたわら、さらに作曲や編曲も手懸け、バンドリーダーとしてビッグバンドを率いたり、さらには教育者を務めたりもした。演奏家としての経歴は比較的短く、同世代の他のミュージシャンに比べると、演奏活動についてはほとんど知られていない。しかしながら、「マイノリティ(Minority)」や「ソーシャル・コール(Social Call)」、「ニカズ・テンポ(Nica's Tempo)」などのいくつかの楽曲は広くカバーされており、主流派のジャズ・ミュージシャンが出揃う演奏会場では、しばしば耳にすることができる。グライスの作風は、和声の選び方において、同時代ではタッド・ダメロンやベニー・ゴルソン、ホレス・シルヴァーの作風に近い。グライスが演奏や編曲・作曲に携わった期間は、ハード・バップの古典時代(だいたい1953年から1965年)に合致する。 略歴ジャズ・ミュージシャンではあったものの、戦後(1947年9月15日)にボストン音楽院に入学して、クラシック音楽の作曲法をアラン・ホヴァネスとダニエル・ピンカムに師事し、1952年6月6日に音楽学士号を得て修了した。在学中は、多数の交響楽や室内楽を創作した筈である。ボストンでは、地元の音楽教師マーガレット・チャロフ(サクソフォーン奏者サージ・チャロフの実母)にも作曲の指導を受けている。さらに、フルブライト奨学金を得てパリに留学し、ナディア・ブーランジェとアルテュール・オネゲルの薫陶を受けた[1]。 1950年代には、もっぱらアルト・サクソフォーン奏者として、斬新なビバップ奏法でいくらか名を馳せた。当時のグライスの共演相手には、セロニアス・モンクやタッド・ダメロン、ライオネル・ハンプトン、ドナルド・バード、クリフォード・ブラウン、アート・ファーマー、ハワード・マギー、リー・モーガン、マックス・ローチ、オスカー・ペティフォード、テディ・チャールズ、ベニー・ゴルソンらがいる。1955年には、トランペット奏者のドナルド・バードを迎えて、ジャズ・ラブ・クィンテット(the Jazz Lab Quintet)を結成している[1]。 グライスは、1950年代にイスラム教に改宗して、名前もバシール・カシム(Basheer Qusim)に改めた。1960年代初頭までにジジ・グライスと名乗るのをやめ、部分的には、経済状態や心理状態に対する私生活での問題も手伝って、演奏活動から身を退いた。最晩年には、ロング・アイランドやニューヨーク・シティの公立学校で教鞭を執っている。グライスの生涯で最後の勤務先となった、ニューヨーク州ブロンクス区168番街にある市立第53小学校は、その遺功を讃えて、バシール・カシム・スクール(the Basheer Qusim School)に改名された。 ディスコグラフィリーダー・アルバム
註釈
外部リンク
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