浦賀におけるコロンバスとビンセンス
日本の画家が描いたビンセンスとその乗組員
日本から見たアメリカ海軍
フィラデルフィアにあるビドルの墓
ジェームズ・ビドル (英 : James Biddle 、1783年 2月18日 - 1848年 10月1日 )は、フィラデルフィア の名門出身のアメリカ海軍 の士官。東インド艦隊 司令長官として浦賀 に来航、アメリカとして初めて公式に開国 を求めた[ 1] [ 2] 。ビッドル と呼ぶ場合もある[ 1] [ 2] 。
青年時の経歴
米国ペンシルベニア州 フィラデルフィア 生まれ。ペンシルベニア大学 に進んだ。大学卒業後の1800年、士官候補生 としてアメリカ海軍 に入った。1801年、第一次バーバリ戦争 に従軍。ビドルが乗艦していた帆走フリゲート ・フィラデルフィア (英語版 ) はトリポリ 沖で座礁、19ヶ月間の捕虜生活を送った[ 1] 。
米英戦争 (1812年〜1815年)開始時、ビドルは帆走戦闘スループ ・ワスプ (英語版 ) の副艦長であった[ 1] 。イギリス艦・フローリックを捕獲したが、奪回され、捕虜となった[ 1] 。釈放後、戦闘スループ・ホーネット (英語版 ) を指揮して、英国海軍のスループ・ペンギン (英語版 ) と交戦した[ 1] 。
1817年にはイギリスとのオレゴン係争 のためコロンビア川 に派遣され[ 1] 、1818年に任務を完了した。
1820年代 には、カリブ海 、南大西洋 および地中海 でアメリカ船保護の任務に就いた[ 1] 。
1830年、ビドルと米国領事 デビッド・オフリーはオスマン帝国 政府と交渉を行い、条約の締結に成功した。後に、この条約はオスマン帝国における米国市民の治外法権 特権に使用された[ 4] 。
望厦条約、1845年
1845年12月、ビドルは米国が清 と結んだ最初の条約である望厦条約 [ 5] の批准書の交換を広 郊外の泮塘で行った。
日本、1846年
ビドルは、ジョン・カルフーン 国務長官 から清 滞在中のケイレブ・クッシング 公使に対する、日本との外交折衝を開始する旨の指令書を持っていた。しかし、クッシングはすでに帰国した後だった。また、彼の後任であるアレクサンダー・エバレット(Alexander H. Everett)は、日本への航海に耐えうる健康状態では無かった。このため、ビドルは自身で日本との交渉を行うことを決意した。
1846年7月7日 、ビドルは戦列艦・コロンバス および戦闘スループ・ビンセンス を率いて、日本に向かってマカオを出港し、7月19日 (弘化 3年(1846年 )閏5月26日 )に浦賀 に入港した。直ちに日本の船が両艦を取り囲み、上陸は許されなかった。ビドルは望厦条約と同様の条約を日本と締結したい旨を伝えた。数日後、日本の小舟がコロンバスに近づき、幕府 からの正式の回答を伝えるために、日本船に乗り移って欲しいと申し出た。ビドルは躊躇したものの、同意した。ビドルが日本船に乗り込もうとしたとき、通訳の手違いから、護衛の武士がビドルを殴り、刀を抜くという事態が発生した。ビドルはコロンバスに戻り、日本側は謝罪した。結局、幕府からの回答は、オランダ 以外との通商を行わず、また外交関係の全ては長崎 で行うため、そちらに回航して欲しいというものであった。ビドルは「辛抱強く、敵愾心や米国への不信感を煽ること無く」交渉することが求められていたため、それ以上の交渉を中止し、7月29日 (6月7日 )、両艦は浦賀を出港した[ 6] 。その際、帆船のため、風が無く浦賀から出られなくなるという事態に陥り、曳航してもらったという事態も起きたことがある。なお、ビドルが来訪するであろうことは、その年のオランダ風説書 にて日本側には知らされていた。
ビドルはコロンバスを率いて太平洋を横断し、12月にはチリ のバルパライソ に到着した。米墨戦争の勃発に伴い、翌1847年 3月2日 にはカリフォルニアのモントレー沖に移動した。そこで、太平洋艦隊 と合流し、先任であったビドルは太平洋艦隊の司令官となった。
1848年10月1日、ビドルはフィラデルフィアで死亡し、同地のキリスト教会墓地 (英語版 ) に埋葬された。
1853年、マシュー・ペリー は日本の開国に成功する。ペリーはビドルの失敗を研究し、砲艦外交 によって日本を開国させたのである[ 7] 。
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク