初代ハミルトン卿 ジェイムズ・ハミルトン (英 : James Hamilton, 1st Lord Hamilton 、1410年 ごろ – 1479年 11月6日 )は、スコットランド貴族 、政治家。1度目の結婚でダグラス伯爵 家と結びつき、ダグラス家が没落するとスコットランド王ジェームズ2世 に寝返った。晩年に国王ジェームズ3世 の妹と再婚してハミルトン家の地盤を固めたが、4歳の息子を残して死去した[ 1] [ 2] 。
生涯
ジェイムズ・ハミルトン・オブ・カジュー (英語版 ) と妻ジャネット(Janet 、初代リヴィングストン卿ジェイムズ・リヴィングストン (英語版 ) の姉)の息子として[ 1] 、1410年ごろに生まれた[ 2] 。
1439年7月までに騎士爵 に叙された[ 2] 。1440年までにスコットランド王ジェームズ2世 の枢密顧問官 (英語版 ) になり、1445年6月28日または7月3日に世襲貴族 のロード・オブ・パーラメント であるハミルトン卿 に叙された[ 1] 。
1度目の結婚でダグラス伯爵 家と親しくなり[ 2] 、1450年に第8代ダグラス伯爵ウィリアム・ダグラス (英語版 ) とともにローマ に向かい、教皇ニコラウス5世 にハミルトン の教区教会 を協同教会 (英語版 ) に変更するための請願を出した[ 3] 。この請願は受け入れられ、1462年には司祭長が任命された[ 3] 。また1460年1月にグラスゴー の領地をグラスゴー大学 へ寄贈[ 2] 、1476年以前にショッツ (英語版 ) 教区(現ノース・ラナークシャー の一部)の教会と病院を建てた[ 3] 。
しかし宮廷ではまずリヴィングストン家が、次にクライトン家が影響力を持ち、さらに1452年2月に第8代ダグラス伯爵がジェームズ2世に殺害され、ハミルトン卿とジェームズ2世の関係は良好とは言えなかった[ 2] 。ハミルトン卿は第9代ダグラス伯爵ジェイムズ・ダグラス (英語版 ) らとともに抗議文を出し、1452年8月28日に一時和解するも1455年3月にジェームズ2世が突如出兵し、4月のはじめにはハミルトン卿がアバコーン城 (英語版 ) で包囲された[ 3] 。ハミルトン卿とダグラス伯爵の軍勢が救援に向かったが[ 3] 、ハミルトン卿はのちに降伏して国王側に寝返り、ロスリン城 (英語版 ) に短期間投獄されたのち1455年7月1日に(元はダグラス伯爵の世襲職だった)ラナークシャー州長官 (英語版 ) の世襲職を与えられた[ 1] [ 2] 。寝返った理由はダグラス伯爵が優柔不断だったためとも、母の弟にあたるリヴィングストン卿が説得したためともされる[ 3] 。
ハミルトン卿は1457年初より第4代アンガス伯爵ジョージ・ダグラス (英語版 ) の庇護を受けるようになった[ 3] 。1460年にジェームズ2世が死去すると、ハミルトン卿は一時宮廷に出入りするようになった[ 3] 。
1461年から1472年にかけて使節としてイングランド王国 へ数度派遣された[ 1] 。
1479年11月6日に死去、息子ジェイムズ が爵位を継承した[ 1] 。『オックスフォード英国人名事典 』によれば、埋葬地はおそらくハミルトン の教会である[ 2] 。
家族
ジャネット・マクスウェル(Janet Maxwell )と婚約したが、結婚に至らなかった[ 2] 。
1441年2月25日、ユーフェーム・ダグラス(Eupheme Douglas 、1406年以降 – 1468年夏、サー ・パトリック・グラハムとストラサーン女伯爵ユーフェミア・ステュアート (英語版 ) の娘、第5代ダグラス伯爵アーチボルド・ダグラス (英語版 ) の未亡人)と結婚[ 1] 、1女をもうけた[ 4] 。
エリザベス(1517年3月11日以降没) - 1459年、第5代クロフォード伯爵デイヴィッド・リンジー と結婚、子供あり。2人は1484年までに離婚した。1503年までにジョン・フォレスター(John Forrester )と再婚したが、1508年までに再度離婚したとされる[ 5]
1474年2月/3月ごろにメアリー・ステュアート (英語版 ) (1451年 – 1488年5月ごろ、スコットランド王ジェームズ2世の娘、初代アラン伯爵トマス・ボイド (英語版 ) の元妻)と再婚したが、メアリーの連れ子2人を嫡子とする教皇シクストゥス4世 からの許可は1476年4月25日になってようやく得られた[ 1] 。2人は1男1女をもうけた[ 4] 。
このほか、下記の庶子をもうけた[ 4] 。
ジェームズ(1455年10月23日以前 – 1473年以前) - 記録が少なく、不明な点が多い[ 4]
ジョン(1474年2月4日以前 – 1540年以前) - ジャネット・コーダーウッド(Janet Calderwood )との間の息子。ジャネット・ハミルトン(Janet Hamilton )と結婚して、子女をもうけた[ 4]
パトリック (英語版 ) (1474年2月4日以前 – 1520年4月30日) - ジョンの弟。1498年までに騎士爵に叙された。マーガレット・ステュアート(Margaret Stewart 、1542年7月5日以降没、おそらくオールバニ公爵アレグザンダー・ステュアート (英語版 ) の娘)と結婚した。エディンバラ におけるハミルトン家とダグラス家の小競り合いで殺害された[ 4]
デイヴィッド (英語版 ) (1523年没) - 1497年4月3日、アーガイル司教 (英語版 ) に任命された。1519年5月13日、ドライバラ修道院長 (英語版 ) に任命された[ 4]
出典
^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward ; Doubleday, Herbert Arthur; Warrand, Duncan; Howard de Walden, Thomas , eds. (1926). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Gordon to Hustpierpoint) (英語). Vol. 6 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. pp. 254–256.
^ a b c d e f g h i Borthwick, Alan R. (23 September 2004). "Hamilton family". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/54222 。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 。)
^ a b c d e f g h Paul, James Balfour, Sir , ed. (1907). The Scots Peerage (英語). Vol. IV. Edinburgh: David Douglas. pp. 349–352.
^ a b c d e f g Paul, James Balfour, Sir , ed. (1907). The Scots Peerage (英語). Vol. IV. Edinburgh: David Douglas. pp. 353–355.
^ Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary ; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 65.
^ Cokayne, George Edward ; Doubleday, Herbert Arthur; Howard de Walden, Thomas , eds. (1929). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Husee to Lincolnshire) (英語). Vol. 7 (2nd ed.). London: The St Catherine Press. p. 596.