コーク郡 (テキサス州)
コーク郡(コークぐん、英: Coke County)は、アメリカ合衆国テキサス州の中央部西、エドワーズ高原に位置する郡である。2010年国勢調査での人口は3,320人であり、2000年の3,864人から14.1%減少した[1]。郡庁所在地はロバートリー市(人口1,049人[2])であり[3]、同郡で人口最大の都市でもある。郡名は第15代テキサス州知事リチャード・コークに因んで名付けられた。コーク郡は以前に禁酒郡だったが、2005年にビールとワインの販売を認める法が成立した。 歴史インディアン1700年頃から1870年代に掛けて、コマンチ族、トンカワ族、リパン・アパッチ族、カイオワ族、キカプー族などインディアン部族がこの地域を動いていた。これらの部族は川やクリークに沿った岩陰で暮らしており、その跡には人工物や種の貯蔵物、道具、墓所、岩刻絵、川の貝殻、シチメンチョウやシカの骨、火打石のナイフ、へら、やじりなどが残された[4] [5]。 開拓初期1851年、アメリカ陸軍のシャドボーン基地[6]がフロンティア防衛のために設置され、南北戦争が始まるまで駐屯された。バターフィールド陸路郵便が1858年から1861年まで地域を抜けて運行された[7]。 1860年から1880年代初期、後にコーク郡となる地域に入っていたのは、広大な牧草地に惹きつけられた牧場主だけだった。J・J・オースティンが1875年にサンコ近くに牧場を開いた[8]。1877年にはペイト・フランチャーが入植してきた。 1882年、テキサス・アンド・パシフィック鉄道がサンアンジェロまでの運行を開始し、地域に入ってくる開拓者の数が増え始めた。 1880年代は厳しい旱魃に見舞われ、フェンス切り戦争が続いた。州政府がこの紛争を解決することになった。 郡の成立と成長1889年、テキサス州議会がトムグリーン郡の一部を分離してコーク郡を設立した。同年に組織かも行われ、ヘイリックが郡庁所在地に指定された[9]。郡内で最初の新聞である「ヘイリック・デモクラット」が1889年に発刊されたが、後に「ラスラー」と改名された。 1891年、住民投票で新しいロバートリーの町が郡庁所在地に指定された[10]。南軍の将軍ロバート・E・リーはシャドボーン基地で勤務したことがあった。同年、新聞社も新しい郡庁所在地に移転され、「ロバートリー・オブザーバー」と改名された。 D・W・キー博士が[11] [12]ブロンテの町を設立し、イギリスの小説家シャーロット・ブロンテに因んで名前を付けた[13] [14]。この町は当初オソ、その後ブロンコと名付けられていた。1890年に住民がブロンテと改名した後で郵便局が認可された。 シルバーピーク峰に因んだシルバーの町が、牧畜業の中心として1870年から1880年まで置かれた。初期開拓者にはS・M・コナー、R・B・アレン、W・G・ジェイムソン、W・R・ウォーカーなどがいた。J・E・リード博士はこの地域で50年間唯一の医者だった。20世紀半ばに石油が発見され、それに関わる産業でシルバーの町にもブームが訪れた。1966年に石油開発用のキャンプが閉鎖されると、シルバーの人口も激減した。 1892年、テニスンの町が設立された。この名前はイギリスの詩人アルフレッド・テニスンに因むものだった。2年後には郵便局が置かれた。 1907年、カンザスシティ・メキシコ・アンド・オリエント鉄道が、サンアンジェロから北に線を伸ばし、テニスン、ブロンテの町やフォートシャドボーンが恩恵を受けた。 1910年には綿花の作付けがピークを迎えたが、1920年代にワタミゾウムシの被害で急激に衰退した。この頃にはトウモロコシ、コムギ、ソルガムや果樹の栽培も広がった。世界恐慌では大きな影響を受け、人口も減少した。 1942年には石油が郡内で発見され、1991年初期までに、累計の石油生産量は209,281,131 バーレル (33,273,041 m3) になった。石油から上がる利潤への課税によって、郡内のインフラや公共施設が改善され、郡民へのサービスレベルが上がった。石油の生産は郡の収入の大きな比率を占めた[15]。 地理アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は928平方マイル (2,403.5 km2)であり、このうち陸地899平方マイル (2,328.4 km2)、水域は29平方マイル (75.1 km2)で水域率は3.14%である[16]。 主要高規格道路
隣接する郡
人口動態
都市と町
脚注
外部リンク |