ケーキを食べればいいじゃない
「ケーキを食べればいいじゃない」とは、フランス語の語句 Qu'ils mangent de la brioche !(「ブリオッシュを食べればいいじゃない」の意)を踏まえた英語の慣用句 Let them eat cake を日本語に訳したもので、農民が主食として食べるパンに事欠いていることを知った「あるたいへんに身分の高い女性」(une grande princesse) が言ったとされる台詞である。一般には、その女性はマリー・アントワネットとされるが、実際にはこれはアントワネット自身の言葉ではないことが判明している。 意訳のバリエーションとして、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」のフレーズも広く知られる。 解説通常ブリオッシュは一般的なパンと異なり、バターと卵を使ったぜいたくな食べ物であり、身分の高い女性が庶民の暮らしに疎いことを示す台詞として引用される[注 1]。 ルソー『告白』の記述「ケーキを食べればいいじゃない」は通常、王妃マリー・アントワネットの言葉とされるが[1][2][3]、実際にアントワネットが発したという記録はみつかっていない。この台詞はジャン=ジャック・ルソーの自伝的な『告白』(出版は1782年であるが、最初の6巻が1765年に書かれたときにマリー・アントワネットは9歳だった)に出てくることで知られる。まずルソーは盗んだワインの供にパンを求めていることが前段にあるのだが、そのときの格好が瀟洒に過ぎてただのパン屋へは行きかねた。そこで彼はある「たいへんに身分の高い女性」の言葉を思い出すのである[4]。6巻にはこう書かれている。
そしてルソーはブリオッシュのようなぜいたく品しか売っていない高級な菓子店に行くのである。この「たいへんに身分の高い女性」が誰とは名指されていないままである。『告白』が概して非常に不正確な自伝であることを考慮すると、これはルソーの考えたアネクドート(小咄)だともいえる。至るところでルソーは「事実」を包み隠すことなく認めるのだが、現代の研究者が検証した限りでは、誤っていたり歪められていたり、そもそも存在しなかったりするとされる[6]。しかし彼の著作は最も古い「ケーキを食べればいいじゃない」という言葉の典拠となっている。 誰の言葉かマリー・アントワネットの言葉として引かれてきた「ケーキを食べればいいじゃない」は、その夫であるルイ16世の治世下のフランスで起こった飢饉の最中に発せられたと考えられてきた。各地でパンが不足し始めているために人々が苦しんでいると窘められて、王妃は「それならブリオッシュを食べれば良い」と返す[7]。1931年に書かれたドイツのエーリッヒ・ケストナーによる児童書「点子ちゃんとアントン」の中にこのアネクドートは初めて現れるのだが[8]、フランス革命の時代に君主制の反対者の側で引用されたことはなかった。後代にこの台詞が非常に象徴的な意味合いを持ったのは、革命派の歴史家が当時のフランス上流階級の人間がいかに物忘れが激しく傲慢であるかの実例を求めたときである。あるアントワネットの伝記作家は、この言葉は引用するにはいかにも都合のいいものだったということを記している。なぜなら「フランスの農民と労働者階級にとってパンとは欠くべからざる食料であった。収入に占める支出の割合が、燃料であれば5パーセントであるのに対して、パンのそれは50パーセントに達したほどだ。したがってパンに関する話題ともなればなんでも脅迫的なまでに国家的関心事となった」[9]。 しかし、マリー・アントワネットがこの言葉をかつて語ったことがあるという記録は残されていない。最初にそれを王妃のものだとしたのはアルフォンス・カール (Jean-Baptiste Alphonse Karr) であり、1843年3月の雑誌『雀蜂 (Les Guepes)』に見ることができる[8]。そういったマリー・アントワネットのケーキあるいはブリオッシュという伝説への異議申し立ては、主にアントワネットの実際の性格に関する議論や、フランス王家の内部証拠、言葉の出所の年代などを検証する中で行われる。例えば英語によるアントワネットの伝記として最も売れた書籍の著者、アントニア・フレーザーは2002年にこう記している。 しかし、この説も信憑性に乏しい。フレーザーはマリー・テレーズ説の根拠としてルイ18世の回想録を用いているが、ルソーの『告白』が書かれたときにルイ18世はわずか14歳であり、その自伝が出版されるのはずっと後のことである。そしてその中でマリー・アントワネットには言及しておらず、有名な台詞は古い伝承にあるものだと述べられている。また家族の間では1660年代にルイ14世と結婚したスペインの王女(マリー・テレーズを指す)の言葉だとずっと信じられていた、とも書いている。したがってルイ18世もやはり他の人と同じだけ、急速に広まったルソーの本来の言葉を歪めた言説に影響を受けた記憶を語っているのである。 フレーザーが伝記のなかで指摘しているように、マリー・アントワネットは寛大な慈善家であり、耳に届く貧しい人々の惨状には心を痛めていた。したがってこの言葉はアントワネットの性格からいって大いに問題がある[11]。こう考えると、マリー・アントワネットの発言とするのは疑わしくなる。 また、ルイ16世の在位中に本当の意味での飢饉が起こったことはなかった。深刻なパン不足が起こったのは二度だけである。一度目は王が即位する直前の数週間である(1775年の4-5月)。二度目は1788年で、この年はフランス革命の前年である。前者は小麦粉戦争 (la guerre des farines) として有名な暴動につながり、フランス南部を除く地域でこの名がついた事件が起こっているが、マリー・アントワネットは当時オーストリアにいた家族にこの暴動に触れた手紙を送っており、そこでは「ケーキを食べればいいじゃない」の精神とはまったく相容れないかのような態度がつまびらかになっている。
発言の主を巡る議論は年代というさらなる問題を抱えている。最初にルソーの著書が出版されたときマリー・アントワネットは若すぎるばかりか、そもそもフランスにいなかった。『告白』は1769年に出た本だが、マリー・アントワネットがオーストリアからヴェルサイユに行くのは1770年、14歳のときで、この若きオーストリア大公女を当時本を執筆中だったルソーが知っていたはずがなく、『告白』で述べられた「たいへんに身分の高い女性」にはなりえない[13] 。 この言葉がマリー・アントワネットのものだということになっていく過程を辿る上で重要なのは、フランス革命が勃発する直前の時期には、この王妃が本格的に人望をなくしていたという観点である。ルイ16世と結婚したアントワネットの軽薄さやたいへんな浪費はフランスのひどい財政的な逼迫の唯一の要因としてしばしば言及された[14]。オーストリア人という出自を持った女性であることも、ゼノフォビアとショーヴィニズムがいまだ国政において幅をきかせていた国では大きな要因となった[15]。事実、少なからぬ反君主制を唱える人間にとって(不正確ではあれ)マリー・アントワネットがひとりでフランス経済を悪化させたということは納得がいくことだった。だからこそ王妃には「赤字夫人」というあだ名がつけられた[16]。くわえて反王政のリベラリストは王族やその取り巻きを攻撃する物語や記事を出版したが、そこには誇張や架空の事件、全くの嘘が含まれていた。したがって王やその妃に向けられる怒りや不満が沸き立つように高まる中で、不平を鳴らす人間が「マリー・アントワネットの口から出てきた」という話を仕立て上げたとしても全く不思議ではない。 また、別の見方をすれば、「ケーキを食べればいいじゃない」が、革命後に民衆の間の神話としてマリー・アントワネットの言葉として定着したのは、アントワネットがヴェルサイユにおける事実上最後の「たいへんに身分の高い女性/お姫様」であったためだとも考えられる。それ以前には、例えばルイ15世の娘であるマダム・ソフィーやマダム・ヴィクトワールといったフランス王家の姫君たちがこの言葉を言ったことにされたことがあった。 東洋における同様のエピソード中国でも『晋書』恵帝紀光熙元年(306年)に同じような話が伝わっている。当時、社会が混乱をきわめ、ついに餓死者が出るほどであったが、当時の皇帝である晋の恵帝は、これを知って「何不食肉糜(何ぞ また日本では天明7年(1787年)、天明の大飢饉により米価が高騰し深刻な米不足が起こった際、北町奉行曲淵景漸は町民からのお救い米の要求に応じず、「以前の飢饉では猫1匹が3匁した、今回はそれほどでもない」[20]や、「犬を食え」、「猫を食え」と放言したとか、「町人は米を食うものではない、米が無ければ何でも食うが良い」と叱りつけたとされた。ただし、お救い願いに対して実際に曲淵がどのような発言をしたのかについては伝わっておらず、困窮した江戸町民の訴えに耳を貸そうとしない町奉行に対して広まった風説とされている[21]。5月頃から江戸では天明の打ちこわしが発生し、曲淵は6月1日に西丸留守居に左遷されたが、その後松平定信の時代に復権し、勘定奉行を務めている。 1950年12月7日、池田勇人大蔵大臣が米価の統制について質問された際に、「米と麦との価格の問題につきましても、日本古来の習慣に合つたようなやり方をして行きたい。お百姓さんに小麦を食え、而も米の一〇〇に対して九五の小麦を食えと言つてもお百姓さんはなかなか食わぬ。」「大所得者も小所得者も同じような米麦の比率でやつております。これは完全な統制であります。私は所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります。」と答弁した[22]。質問者の木村禧八郎は「所得の少い者は麦を食え、例えば農村に例をとればお百姓さんは昔のように稗でも粟でも食え、米を食うのは主食の統制の結果だ。それだから食習慣を昔に戻すためにこういう食糧の価格体系を考えたのである。こういうような答弁でありました」と批判し、議場からも「問題発言だ」と声が上がった[22]。この答弁はしばしば池田が「貧乏人は麦を食え」と述べたこととされている[23]。 大衆文化における言及英語の語句「Let them eat cake」や、その口語的表現「Let 'em eat cake」は、英語圏の大衆文化の中でしばしば使用される。
日本のマンガ作品『マリー・アントワネットの料理人』は、18世紀のフランス宮廷に日本人の料理人がいたという架空の設定による話であるが、その中では(通説とは異なり)ブリオッシュがぜいたく品ではなかったとする解釈が示されている[26]。 脚注注釈
出典
参考文献
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