ケネス・マッケンジー (初代シーフォース伯爵)初代シーフォース伯爵ケネス・マッケンジー(英語: Kenneth Mackenzie, 1st Earl of Seaforth FRS、1744年1月15日 – 1781年8月27日)は、グレートブリテン王国の政治家、アイルランド貴族。1768年から1774年まで庶民院議員を務めた[1]。 生涯フォートローズ卿ケネス・マッケンジー(1718年ごろ – 1761年10月18日、第5代シーフォース伯爵ウィリアム・マッケンジーの長男)と妻メアリー(Mary、旧姓ステュアート(Stewart)、1751年4月10日没、第6代ギャロウェイ伯爵アレクサンダー・ステュアートの娘)の息子として、1744年1月15日にエディンバラで生まれ、29日に洗礼を受けた[1]。1761年10月18日に父が死去すると[1]、その遺産を継承した[2]。青年期を大陸ヨーロッパで過ごし、1764年にはブラウンシュヴァイクに滞在したが、その直後に帰国した[2]。1766年11月18日、アイルランド貴族であるウィックロー県におけるフォートローズ子爵とアーデルヴ男爵に叙された[3]。 マッケンジー氏族の氏族長だったが、スコットランドの事務はほとんど顧みず、氏族はスコットランド王璽尚書ジェームズ・ステュアート=マッケンジーを実質的な氏族長とした[2]。マッケンジーはロスシャー選挙区で影響力を有したが、ロスシャー選挙区で立候補したステュアート=マッケンジーに反対せず、ステュアート=マッケンジーは1780年に引退するまで再選を繰り返した[4]。 1768年イギリス総選挙でケイスネス選挙区から出馬して当選したが、マッケンジーはケイスネスで不動産を所有しておらず、あくまでも政府の支持者としての当選だった[5]。議会で演説した記録はなく、会議への出席率も悪かったが、1771年に第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイ(妻の母の兄の息子にあたる)が入閣すると[2]、同年12月3日に同じくアイルランド貴族であるシーフォース伯爵に叙された[1][6]。1774年イギリス総選挙ではロスシャー、テイン・バラ選挙区、インヴァネスシャー選挙区での出馬が検討されたが、最終的にはステュアート=マッケンジーの対立候補として出馬することを辞退、議員を退任した[2]。1779年には債務が重なったため、領地を祖父の弟の孫にあたるトマス・フレデリック・マッケンジー・ハンバーストンに売却した[2]。 1777年12月に第78ハイランダーズ連隊を招集して、その指揮官に就任、1781年6月には連隊とともに東インドに渡ったが、その道中の1781年8月27日に死去した[2]。後継者がおらず、爵位はすべて廃絶した[7]。連隊隊長の職はトマス・フレデリック・マッケンジー・ハンバーストンが就任した[8]。 人物おしゃれな人物である一方、豪奢で放蕩だったとされる[2]。 1772年11月12日、王立協会フェローに選出された[9]。 家族1765年10月7日、ロンドンでキャロライン・スタンホープ(Caroline Stanhope、1747年3月11日[7] – 1767年2月9日、第2代ハリントン伯爵ウィリアム・スタンホープの長女)と結婚、1女をもうけた[1]。
1774年7月に愛人ハリエット・ポウェル(Harriet Powell、旧姓ラム(Lamb)、1779年12月11日没)とともに国外に行き、後に秘密結婚した[1][2]。 出典
外部リンク
|