ケダラオメルケダラオメル(ヘブライ語: כְּדָרְלָעֹמֶר、現代ヘブライ語: Kədarla'ōmer、ティベリア方言: Keḏārelā'ōmer、セム祖語: Keḏārelāġōmer)は、創世記第14章に言及があるエラムの王[1]。創世記では、彼が、他の3人の王たちと同盟し[2]、カナンの地にあった5つの都市国家の蜂起に対して軍事行動を起こしたことが、アブラハムの時代の事柄として述べられている。 英語では、綴りは「Chedorlaomer」ないし「Kedorlaomer」で、発音は [ˌkɛdərˈleɪəmər] となり「ケダーレイアマー」に近い。 語源→「en:Battle of Siddim」も参照
ケダラオメルという名は、エラム語で「召使い」を意味する「kudur」などと、エラムの神々のひとつで地位の高い女神ラガマル (Lagamar) に結びつくものである[3]。 ケダラオメルという名の言語学的起源は、ペルシア語や古代アッシリア語(アッカド語)の名に遡るものである可能性がある。ペルシア語には、「Kĕdorla`omer」(ゲドリアオメル)という名がある。アッシリアの名で関連がありそうなのは、「Kudurlagamar」(クドゥルラガマル)や、紀元前1770年から紀元前1754年にかけてのラルサの統治者だったクドゥル・マブク (Kudur-Mabuk) がいる[4]。いずれにせよ、1906年版の『ジューイッシュ・エンサイクロペディア (The Jewish Encyclopedia)』は、ケダラオメルがエラム語の固有名詞と考えられることは確かであるが、「それ以外の点については諸説があり」、「バビロニアやエラムの文字記録にも言及は乏しく、ケダラオメルについて確かなことはわかっていない」と述べている[4]。 背景ケダラオメルの統治12年間にわたってエラムの支配下に置かれていた平地の諸都市は、13年目にケダラオメルに反旗を翻した。この反乱を鎮めるため、王は同盟する、シナル、エラサル、そしてテダルが率いたゴイムの3者を動員した(創世記14:9)[5]。 ケダラオメルの軍事行動統治14年目に、ケダラオメルと同盟して戦った勢力は以下の通り[6]。 ケダラオメルの軍事行動の目的は、エラムの統治下にある領域にエラムの力を見せつけることにあった。彼の軍勢と同盟者たちは反乱を起こしたヨルダン平野の諸都市へと向かい、この目的のために、以下のような様々な部族や都市を略奪した。
ケダラオメルの死?→詳細は「en:Battle of Siddim」を参照
シデムの戦いで諸都市に警告を与えた後、ケダラオメル王は賠償を収奪すべくソドムとゴモラに向かった。ソドムでは、戦利品の一部としてロトの一族を丸ごと捕えた。ロトの伯父であるアブラハムは、この一件の知らせを受けて318人の軍勢を率い、エラム勢をダマスコ(ダマスカス)の北のホバまで追った。アブラハムとその一隊はケダラオメルを破った(創世記14:11-17)。ジェームズ1世の欽定訳聖書は、17節に見えるヘブライ語の「וַיַּכֵּם」を「slaughtered(殺害した)」と訳したが(Genesis 14:17)、ヤング英語逐語訳 (Young's Literal Translation) は「smiting(強打する)」としている (Genesis 14:17)。この箇所は日本語では、1953年の文語訳聖書が「撃破りて」[8]、1955年の口語訳聖書が「撃ち破って」と表現している[9]。 王の同定創世記第14章1節は、次のように4人の王の名を挙げている。「シナルの王アムラペル、エラサルの王アリオク、エラムの王ケダラオメルおよびゴイムの王テダルの世に、...[9]」 この記述は、伝統的に4人の別々の王たちに言及したものと解釈されている[10].
脚注
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