グナエウス・オクタウィウス (紀元前76年の執政官)
グナエウス・オクタウィウス(ラテン語: Gnaeus Octavius、紀元前119年ごろ - 没年不明)は紀元前1世紀初期・中期の共和政ローマの政治家。紀元前76年に執政官(コンスル)を務めた。 出自グナエウス・オクタウィウスが属するプレブス(平民)のオクタウィウス氏族は、紀元前230年にグナエウス・オクタウィウス・ルフスが財務官(クァエストル)に就任したことで歴史に登場する[1]。ルフスには二人の息子がいたことが分かっている。次男ガイウスの子孫は騎士階級に留まったが、ガイウスの玄孫がローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(出生時の名前はガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス)である[2]。ルフスの長男のグナエウスは紀元前205年に法務官(プラエトル)に就任している[3]。その子グナエウスは紀元前165年に氏族として初めて執政官に就任した。 カピトリヌスのファスティによると、本記事のオクタウィウスの父のプラエノーメン(第一名、個人名)はマルクス、祖父はグナエウスである[4]。歴史学者は、紀元前165年の執政官を祖父、父は紀元前133年にティベリウス・センプロニウス・グラックスの同僚として護民官を務めたが、その政敵でもあったマルクス・オクタウィウスと考えている[5]。 紀元前87年の執政官グナエウス・オクタウィウス は従兄弟とされている[6]。この家系は代々コグノーメン(第三名、家族名)を名乗っていない。 経歴執政官就任年と、当時のコルネリウス法による高位官職の年齢規定から逆算して、オクタウィウスの生年は紀元前119年ごろとされている[7]。コルネリウス法ではプラエトル(法務官)から執政官まで最低2年の間隔が要求されていることから、オクタウィウスは遅くとも紀元前79年には法務官を務めたはずである[8]。 紀元前76年に執政官に就任。同僚執政官はガイウス・スクリボニウス・クリオであった[9]。この年、護民官グナエウス・シキニウスが、スッラが制定した護民官の権限を制限する法律の廃止を訴えたが、両執政官はこれに反対した[10]。サッルスティウスは、シキニウスはノビレス(新貴族)たちに「包囲され」、この対立は「無実の護民官の死につながった」と書いているが[11]、これを本当にシキニウスが殺害されたのか、あるいは単なる比喩なのかに関して、歴史学者の意見は分かれている[12]。 執政官就任時に既に痛風を患っていたことが知られており、厳粛な就任式において、包帯を巻き湿布をして座らなければならなかった。キケロによると、クリオはオクタウィウスを隣に座らせて長い演説をしたが(クリオは演説中に体を揺らすくせがあった)、護民官シキニウスはオクタウィウスに向かって「あなたは御同僚に命を救われましたな。あの人がいつものよう揺れていたおかげで、ハチに刺されずに済んだのですから」と揶揄した[13]。 その後のオクタウィウスに関する記録はない。キケロはオクタウィウスを「弁論家には向いておらず、軍人にするほうがまし」と評している[14]。 子孫紀元前50年のアエディリス(按察官)マルクス・オクタウィウスを息子とする説がある[15]。 脚注
参考資料古代の資料
研究書
関連項目
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