クリシュフの戦い
クリシュフの戦い、1703年作。
戦争 :大北方戦争
年月日 :
場所 :ポーランド=リトアニア共和国 、キェルツェ の南
結果 :スウェーデンの勝利
交戦勢力
スウェーデン帝国
ザクセン選帝侯領 ポーランド=リトアニア共和国
指導者・指揮官
カール12世 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公 フレデリク4世 † カール・グスタフ・レーンスケルド (英語版 ) オットー・ヴェーリンク (英語版 ) ベルンハルト・フォン・リーヴェン (スウェーデン語版 )
アウグスト2世 アダム・ハインリヒ・フォン・シュタイナウ (英語版 ) ヨハン・マティアス・フォン・デア・シューレンブルク (英語版 ) ヤコブ・ハインリヒ・フォン・フレミング (英語版 ) ヒェロニム・アウグスティン・ルボミルスキ
戦力
12,000:[ 注 1] 歩兵8,000 騎兵4,000 3ポンド砲4門
24,000:[ 注 2] ザクセン歩兵7,500 ザクセン騎兵9,000 ザクセンの大砲46門 ポーランド歩兵660 ポーランド騎兵6,640 ポーランドの大砲4-5門
損害
1,100:[ 注 3] 戦死300 負傷800
4,400:[ 注 4] 戦死1,800 負傷900 捕虜1,700
大北方戦争
クリシュフの戦い (クリシュフのたたかい、英語 : Battle of Kliszów )は、大北方戦争 中の1702年 7月19日 (グレゴリオ暦 )、ポーランド=リトアニア共和国 のクリシュフ (英語版 ) 近くでおきた戦闘[ 7] 。アウグスト2世 率いるポーランド=ザクセン 連合軍は数でスウェーデン軍に上回り、陣地も防御に有利にもかかわらず、カール12世 率いる、人数上では半分以下のスウェーデン軍に敗北した[ 8] 。
背景
ザクセン選帝侯 兼ポーランド王 ・リトアニア大公 アウグスト2世 は1699年にデンマーク=ノルウェー 王フレデリク4世 とロシア・ツァーリ国 のピョートル1世 とともにスウェーデン帝国 への攻撃を計画した[ 9] 。しかし、計画はスウェーデン軍がホムレベク上陸 (英語版 ) を敢行、フレデリク4世がトラヴェンタール条約 で脱落したことにより失敗した[ 10] 。同年、スウェーデン王カール12世 はナルヴァの戦い でロシア軍を撃破した後[ 11] 、ドヴィナ川の戦い (英語版 ) でアウグスト2世の軍勢をスウェーデン領リヴォニア (英語版 ) から追い出し、ポーランド=リトアニア共和国 領内まで追撃した[ 12] 。1702年5月14日に無抵抗なワルシャワ に入城した後、カール12世はさらに西進した[ 13] :688–689 。
スウェーデン軍とザクセン=ポーランド=リトアニアの連合軍はキェルツェ の南にあるクリシュフ (英語版 ) において、5マイルほど離れた場所でそれぞれ軍営を設けた。両軍を大きな森と沼が隔てており、スウェーデン軍が森の北側にいる一方、連合軍は北の狭い沼と西のニダ河谷 (英語版 ) の沼地で守られている。7月19日朝9時、カール12世は行軍を開始して森を抜け、11時に連合軍の北にある沼のさらに北方に到着した[ 14] 。森を抜けたスウェーデン軍は歩兵8千、騎兵4千、大砲4門であり、大砲の大半はまだ森を抜けられずにいた。連合軍はザクセン軍が歩兵7,500と騎兵9千、ポーランド軍が歩兵660と騎兵6,640(フサリア (英語版 ) 1,240人含む)、さらに大砲46門もあった[ 3] [ 14] 。
経過
戦闘の前半
戦闘の後半
スウェーデン軍右翼の指揮官はカール・グスタフ・レーンスケルド (英語版 ) であり、中央部の第1列の指揮官はベルンハルト・フォン・リーヴェン (スウェーデン語版 ) で第2列の指揮官はクヌーズ・ヨーランソン・ポッセ (スウェーデン語版 ) 、左翼は指揮官がシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公 フレデリク4世 で副官がオットー・ヴェーリンク (英語版 ) だった。ザクセン軍は左翼の指揮官がアダム・ハインリヒ・フォン・シュタイナウ (英語版 ) 、中央部の指揮官がヨハン・マティアス・フォン・デア・シューレンブルク (英語版 ) 、右翼の騎兵の指揮官がヤコブ・ハインリヒ・フォン・フレミング (英語版 ) であり、ポーランド騎兵も右翼にあってヒェロニム・アウグスティン・ルボミルスキ が指揮した[ 15] 。
カール12世の戦略はザクセン=ポーランド軍を包むような行軍で潰走させることと、軍を再配置して両翼を強化しようとしたことだった[ 14] 。スウェーデン軍は14時に攻撃を開始、ルボミルスキ率いるポーランド軍に突撃したが、突撃を率いたフレデリク4世が早々に戦死したため前進が止まった。ポーランド軍は反撃を2回試みたがいずれもスウェーデン歩兵に撃退され、フレミング率いるザクセン軍が沼地の向こうから仕掛けた突撃も撃退された[ 14] 。続いてルボミルスキとフレミングが撤退したため、ザクセン軍の中央部と右側がさらけ出され、スウェーデン軍の攻撃に遭って壊滅した[ 14] 。ルボミルスキはスウェーデン騎兵の追撃を受けてキイェ (英語版 ) まで撤退した[ 6] [ 14] 。
このとき、ザクセン軍のシュタイナウはレーンスケルド率いるスウェーデン軍右翼と本軍を切り離すためにレーンスケルドに攻撃、「スウェーデン軍の21個騎兵大隊で約2,100人」と「ザクセン軍の34個騎兵大隊で4,250人以上」の間で激しい戦闘がおこった。スウェーデン軍はザクセン軍の撃退に成功した[ 6] 。
カール12世は16時半にはザクセン軍の軍営まで前進してザクセン軍を周りの沼地へと追い出した[ 14] 。彼はさらにザクセン軍の大砲を鹵獲して使用した[ 6] 。
今やスウェーデン軍はニダ川の橋を占拠してザクセン軍を包囲しようとした。ザクセン軍中央部のシューレンブルク将軍率いる騎兵はほとんど攻撃されておらず、シューレンブルクはすぐさまに激しく抵抗して橋を守ってザクセン軍の撤退を援護、17時には戦闘が終わった[ 6] 。
戦闘中、左翼の指揮官のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公 フレデリク4世 は砲火を受けて戦死した。スウェーデン軍は戦死者が300人に上り、負傷者が800人であった。ザクセン軍とポーランド軍は2千人が戦死、1,700人が捕虜になった(うち1,100人は無傷)[ 14] [ 15] 。
結果
カール12世は戦闘に勝利したが、シューレンブルクの活躍によりザクセン軍は全滅を免れた。スウェーデン軍はザクセン軍の大砲、資金、軍旗60本、アウグスト2世の軍用行李を全て奪い、7月31日にはクラクフ に入城した。スウェーデン軍は翌年もポーランドの支配を強化した[ 13] :689 。アウグスト2世はサンドミェシュ へ撤退した[ 6] 。
脚注
^ スウェーデン軍は書類上では16,230人で[ 1] 4ポンド砲4門あったが、実際は飢饉、疫病、疲労により[ 1] 1万[ 2] から1万2千人(うち3分の2が歩兵)だけが戦闘に適した状態にあった[ 1] 。
^ ザクセン軍は書類上では22,230人で[ 1] 大砲46門あったが、実際は飢饉、疫病、疲労により1万5千[ 2] から1万8千人(うち半分以上が騎兵)だけが戦闘に適した状態にあった。ポーランド=リトアニア軍は書類上では約1万2千人で[ 1] 大砲も4か5門あったが[ 3] 、少なくとも3分の1は兵士ではなく一般市民であり、実際は6千[ 2] から8千人(主に騎兵)だけが兵士だった[ 1] 。
^ スウェーデン軍は戦死者300、負傷者500[ 4] から900人であり[ 2] 、最も広く受け入れられている数字は800人である[ 5] 。さらに、捕虜も2人あり、そのうち1人が士官であった。また軍旗が1本失われた[ 4] 。
^ ザクセン=ポーランド=リトアニア連合軍の合計は戦死2千であり[ 4] 、一部の文献では1,800人とした[ 2] 。撤退中に殺された人数はその上であったが、確実な人数は不明である[ 4] 。捕虜は約1,700人であり[ 5] 、うち1,100人は負傷していなかった。合計では約1,500人が負傷した[ 2] 。ザクセン軍は大砲、資金、軍旗60本、アウグスト2世の軍用行李を全て損失した[ 6] 。
出典
^ a b c d e f Generalstaben (1918). Karl XII på slagfältet, II. P.A. Norstedt och söners förlag, Stockholm. pp. 413–414.
^ a b c d e f Carlson, Fredrik Ferdinand (1883). Sveriges historia under Konungarne af Pfalziska huset, II. Norstedt: Stockholm. p. 105.
^ a b Wagner, Marek. Kliszow 1702. Warsaw, 1994. [リンク切れ ]
^ a b c d Generalstaben (1918). Karl XII på slagfältet, I. P.A. Norstedt och söners förlag, Stockholm. pp. 438–439.
^ a b von Rosen, Carl (1936). Till kännedom om de händelser som närmast föregingo svenska stormaktsväldets fall, II. P.A. Norstedt & söner, Stockholm. p. 58.
^ a b c d e f Larsson (2009), p. 140.
^ Frost (2000), p. 271.
^ Frost (2000), p. 273.
^ Frost (2000), p. 228.
^ Frost (2000) p. 229.
^ Frost (2000), p. 230.
^ Frost (2000), pp. 229ff, 263ff.
^ a b Tucker, S.C., 2010, A Global Chronology of Conflict, Vol. Two, Santa Barbara: ABC-CLIO, LLC, ISBN 9781851096671 .
^ a b c d e f g h Frost (2000), pp. 271-272.
^ a b Ericson (2003), pp. 268–273.
参考文献
Frost, Robert I (2000). The Northern Wars. War, State and Society in Northeastern Europe 1558-1721 . Harlow: Longman. ISBN 978-0-582-06429-4
Ericson, Lars (2003). Svenska Slagfält. Wahlström & Widstrand. pp. 268–273.
Larsson, Olle (2009). Stormaktens sista krig. Lund, Historiska Media. p. 140.
関連項目
外部リンク
座標 : 北緯50度37分0秒 東経20度31分33秒 / 北緯50.61667度 東経20.52583度 / 50.61667; 20.52583