ギヨーム・クストゥー
ギヨーム・クストゥー(Guillaume Coustou、1677年11月29日 - 1746年2月22日)は、フランスの彫刻家である。 同名の彫刻家である息子のギヨーム・クストゥー2世(Guillaume Coustou: 1716-1777)と区別するために「年長のギヨーム・クストゥー(Guillaume Coustou le aîné)」などとも呼ばれる。 ルイ14世とルイ15世の王室彫刻家を務め、1735年に王立絵画彫刻アカデミーの会長になった。マルリー宮殿に置かれた(現在はコンコルド広場に複製がおかれている)彫刻作品「マルリーの馬(Chevaux de Marly)」などの作者として知られている。 略歴リヨンで生まれた。父親はあまり有名でない木彫家で、母方の叔父のアントワーヌ・コワズヴォ(1640–1720)は王立絵画彫刻アカデミーの教授となった彫刻家であった。兄のニコラ・クストゥー(Nicolas Coustou: 1658-1733)も彫刻家になり、1682年にローマ賞を受賞した。 ギヨーム・クストゥーは1694年にパリに移り、叔父のコワズヴォの工房で学んだ。兄のニコラと同じキャリアを歩み、1697年には彫刻部門でローマ賞を受賞し、在ローマ・フランス・アカデミーで学ぶ奨学金を得た。ローマでは、規則に反して在ローマ・フランス・アカデミーを出て、自由な暮らしをしたため、一時生活に困窮したが、友人の彫刻家のルネ・フレマン(René Frémin: 1672-1744)の勧めで、当時ローマで人気のあった彫刻家、ピエール・ルグロ(1666-1719)のもとで働くことで修行を続けた[1]。 1703年にフランスに帰国し、兄や叔父の作品の制作を手伝った。王立絵画彫刻アカデミーの会員候補に選ばれ、1704年10月に、現在ルーヴル美術館が所蔵する「ヘラクレスの死」を提出し、会員となった。1707年に宮廷彫刻家に選ばれた。1706年にアカデミーの助教授に任じられ、1710年に結婚した。1715年にアカデミーの教授に任じられた。 1726年にアカデミーの副会長に選ばれ、1733年にからルイ・ド・ブローニュの後任としてアカデミーの会長に選ばれ、1738年まで務めた。 作品
脚注
参考文献
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