キャサリン・オブ・ブラガンザ(ヤコブ・ユイスマンス 画)
キャサリン・オブ・ブラガンザ(ベネデット・ジェンナーリ(孫) 画)
キャサリン・オブ・ブラガンザ (Catherine of Braganza 、1638年 11月25日 - 1705年 11月30日 )は、イングランド 王チャールズ2世 の王妃。ポルトガル語 名はカタリナ・デ・ブラガンサ(Catarina de Bragança)。
生涯
ポルトガル独立と政略結婚
1638年11月25日、キャサリンはポルトガル のリスボン で、後のポルトガル国王ジョアン4世 (当時はブラガンサ公)とその妻ルイサ・フランシスカ・デ・グスマン (メディナ・シドニア公 の娘)との次女カタリナとして誕生した。ちなみに、彼女の母方の血筋を辿っていくと、チェーザレ・ボルジア の弟ガンディア 公フアン にたどり着く。
父ブラガンサ公ジョアンは、1640年 12月1日 にポルトガル国民の圧倒的支持を受けてスペイン からの独立を宣言し、ブラガンサ朝 を開いて、後に改革王(葡 : o Restaurador )と呼ばれるようになる。しかし、この独立でスペインとの長期にわたる戦争(ポルトガル王政復古戦争 )が始まり、ポルトガル一国では対処できない事態になっていった。そこでジョアン4世は当初、スペインと敵対関係にあったフランス との同盟を1641年 6月1日 に結ぶが、1659年 にフランスがスペインとの和平を実現させたピレネー条約 によってこの同盟関係は無力化し、ポルトガルの独立は危うくなっていった。
ジョアン4世が次に目をつけたのがイングランドとの同盟である。そのためジョアン4世は、娘カタリナを8歳年上のチャールズ王太子(後のチャールズ2世)に嫁がせ、両国間の同盟関係の樹立を図るべく奔走することとなった。この縁談はカタリナが生まれた頃から画策され、1640年12月1日に婚約が交わされていた。しかし、その後イングランドでのピューリタン革命 に伴う混乱によって長らく棚上げとなっていた。これが実現するのは1660年 のイングランドにおける王政復古 の後である。こうして1662年 5月21日 に2人はポーツマス で結婚した[ 1] 。さらに、この結婚によって北アフリカのタンジール とインド のボンベイ(現・ムンバイ )が持参金としてイングランドにもたらされた。この2つの土地は、後年イギリスの海外進出の拠点として重要な位置を占めることとなる[ 2] 。そして莫大な持参金はイングランドが抱える負債の問題も解決されたほどのものであった。
カトリック信仰と戴冠の拒否
このように、この結婚はイングランドにとって後の大英帝国 の発展の原点とも言える2つの植民地の獲得につながった反面、王妃となったキャサリンのカトリック 信仰がイングランド国内、特に議会との間に大きな問題を引き起こすこととなる。それが最初に表面化したのは、キャサリンの王妃としての戴冠拒否という事件である。熱心なカトリックであったキャサリンは、戴冠式がイングランド国教会 の典礼 によって行なわれることを知ると、これを断固拒否した。宗教を理由に戴冠を拒否した王妃は、英国史上キャサリンただ1人である。夫チャールズ2世は新妻にあれこれ強制するのは好まず、事を荒立てなかったが、これに噛み付いたのが国教会信徒の多い議会である。この戴冠拒否問題以後、事あるごとに王妃を追い落とすべく議会の画策が続くことになる。
「陽気な王様」との結婚生活
こうしてイングランドに嫁いだキャサリンであったが、その結婚生活には常に夫の女性関係が付きまとうこととなった。夫・チャールズ2世は美人だったキャサリンを一目で気に入り、生涯大切にしたが、反面「陽気な王様 」(英 : Merry Monarch )とあだ名される女好きで、生涯に公認されただけでも愛人が14人、認知された庶子が14人という記録の持ち主であった。その14人の愛人達の中で特に王妃との関わりが深かったのは、カースルメイン伯爵夫人バーバラ・ヴィリアーズ である。バーバラはロンドン美人と呼ばれるほどの美女であったが、気性が激しく、自分の思い通りにならないとかんしゃくを起こし、廷臣にやつ当たりし、王に無理難題を求めるわがままな女性であった。バーバラは、新婚のチャールズ2世とキャサリンがハンプトン・コート宮殿 に住むことが決まった時、自分もそこに住むといって騒動を起こした。さらにそれだけではなく、無理矢理王妃付きの女官にまでなってしまい、王妃は嫌でもこの愛人と顔を合わせなければならなくなった[ 3] 。
その後も、ネル・グウィン 、ルイーズ・ケルアイユ 、マザラン の姪オルタンス・マンチーニ など、入れ替わり立ち替わり夫の愛人が現れた。温和だったキャサリンは、ポルトガルへの帰国を考えたこともあったものの、愛人を多く作りながらも王妃のことは大切にするというチャールズ2世の姿勢と、1669年 まで数回の妊娠がありながらも世継ぎを出産できなかったことへの引け目から、思いとどまることとなった。しかし、チャールズ2世はバーバラ・ヴィリアーズをはじめ、多くの愛人たちの間に大勢の庶子を儲けた。その中からは、1685年に王位を継承したジェームズ2世 に対して反乱 を起こしたモンマス公 ジェイムズ・スコット のように、王位継承を求める人物も現れた[ 4] 。
夫の死とその後の動向
王妃が世継ぎを産まなかったことによって、1685年 2月6日 にチャールズ2世が死去すると、王位は弟のジェームズ2世が継承することとなった。未亡人となったキャサリンは、カトリック教徒であったジェームズ2世の治世中はイングランドに留まっていたが、1689年 に名誉革命 でプロテスタント のウィリアム3世 とメアリー2世 が即位したことを受けて帰国を決意し、1693年 、31年ぶりに故国ポルトガルに帰国した。その後は1705年11月30日に亡くなるまで弟のペドロ2世 (通称:太平王、o Pacífico )の元で暮らした(一時、弟の摂政も務めている)。
紅茶を飲む習慣をもたらす
イングランドにおいて最初に紅茶 がもたらされたのは、キャサリンが嫁いだ1662年前後のことである。当時の紅茶は大変な高級品で、よほど身分が高くなければ手に入れることはかなわなかった。しかし、これを毎日のように飲んでいたのがキャサリンであった。これは、当時貿易先進国として繁栄していたポルトガルの王女だったからこそできた贅沢である[ 2] 。彼女が生活していたサマーセット・ハウスでは、訪問者にこの紅茶が毎日ふるまわれ、人気を呼んでいた。そしてそこから、イングランドにおける喫茶の習慣が確立していくこととなる。
脚注
^ 森、p. 427
^ a b 森、p. 428
^ 森、p. 426
^ 森、p. 424 - 432
参考文献