カール・パバーノ
カール・アンソニー・パバーノ(Carl Anthony Pavano, 1976年1月8日 - )は、元野球選手。ポジションは、投手。右投右打。アメリカ合衆国コネチカット州出身。 経歴ニューヨーク・ヤンキースに憧れ、少年時代から野球を始め、サウジントン高校へ進学。1993年・1994年と2年連続で州のベストナインに選出され、大リーグのスカウトから注目され[2]、1994年にドラフト13巡目でボストン・レッドソックスへ入団した。 1994年はルーキー級、1995年はA級に在籍。1996年はAA級のトレントン・サンダーでリーグ1位となる16勝・防御率2.63を記録し、リーグ最優秀選手に選出された。1997年は肩を痛めたため開幕を故障者リスト入りで迎えるも、AAA級のポータケット・レッドソックスで11勝6敗・防御率3.12を記録し、与四球率1.78は先発投手としてリーグ最高となった。ブライアン・ローズとともに「将来はサンディー・コーファックスとドン・ドライスデール以来最強の投手コンビの誕生か?」と言われたが[2]、シーズンオフの11月18日、ペドロ・マルティネスとのトレードでモントリオール・エクスポズへ移籍[3]。 1998年のスプリングトレーニングで右肩痛が再発したが[2]、5月23日に22歳でメジャーデビューを果たした。9月27日のセントルイス・カージナルス戦ではマーク・マグワイアに70本目の本塁打を与えた[4]。メジャー1年目は24試合(うち23試合に先発)に登板し6勝9敗を記録した。 2002年7月11日にクリフ・フロイド、ウィルトン・ゲレーロ、クラウディオ・バルガスとのトレードでグレアム・ロイド、マイク・モーデカイ、ジャスティン・ウェインと共にフロリダ・マーリンズへ移籍[3]。2003年に12勝、ポストシーズンでは8試合に登板し、3勝と防御率1.40を記録してワールドチャンピオンを経験。2004年にはオールスターゲームに初出場し18勝(ナショナルリーグ2位)を記録し、サイ・ヤング賞の投票数は6位。 シーズンオフの11月3日にFAとなり、ストーブリーグの目玉選手の一人として激しい争奪戦が繰り広げられた。シンシナティ・レッズやボストン・レッドソックスなども興味を示す中、4年総額3,995万ドルでヤンキースへ移籍した[5]。 ヤンキース移籍1年目の2005年、ほぼ中4日で登板していたが、6月27日の登板を最後に故障者リスト入りした[6]。17試合に先発登板し、4勝6敗でシーズンを終えた。2006年は故障のリハビリのために全休。5月に肩の関節の遊離軟骨を除去する手術を受け、8月にキャッチボールを再開したが、自動車事故を起こし、あばら骨を折る重傷を負った[7]。2007年は4月2日に開幕投手を務め、4月9日に2回目の登板を最後に離脱し、シーズンを終えた。契約最終年となった2008年は8月23日にシーズン初登板。その後先発ローテーションを守り、7試合に登板して4勝2敗・防御率5.77でシーズンを終えた。 結局、鳴り物入りで加入したヤンキースに在籍した4年間で登板はわずか26試合と散々な結果に終わり、この4年契約は、過去ヤンキースが結んだFA契約のうち最悪のものの一つと見做されている[8]。このようなファンの思いは、パバーノがヤンキースを離れた途端復活し、ヤンキース戦でしばしば好投を見せたこともあって、一層増幅された。11月4日にFAとなった。 2009年1月6日、クリーブランド・インディアンスと年俸150万ドルの1年契約を結んだ[9]。8月7日に後日発表選手との交換トレードでミネソタ・ツインズに移籍した[10]。このシーズンは復活し、両チームで14勝を挙げた。オフの11月7日にFAとなった。 2010年1月19日に年俸700万ドルの1年契約でツインズと再契約した[11]。レギュラーシーズンは17勝11敗・防御率3.75とキャリアハイの2004年に次ぐ成績を残した。オフの11月1日にFAとなった。 2011年1月19日にツインズと総額1,650万ドル+出来高(500万ドル)の2年契約で再契約[12]。同年は33試合に登板し9勝13敗、防御率4.30でシーズンを終えた。 2012年オフの10月29日にFAとなった。 2014年2月27日に現役引退を表明した。 詳細情報年度別投手成績
脚注
外部リンク
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