カール・アウグスト・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ (1844-1894)
カール・アウグスト・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ(ドイツ語: Karl August von Sachsen-Weimar-Eisenach, 1844年7月31日 - 1894年11月20日)は、ドイツの領邦ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の大公世子。ザクセン公(Herzog zu Sachsen)。 ザクセン大公家の白鷹勲章の最高勲章とヘッセン=カッセル家の金獅子勲章を保持していた。 生涯ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公カール・アレクサンダーとその妃のオランダ王女ゾフィー(ウィレム2世の娘)との間の一人息子としてヴァイマルに生まれた。全名はカール・アウグスト・ヴィルヘルム・ニコラウス・アレクサンダー・ミヒャエル・ベルンハルト・ハインリヒ・フリードリヒ・シュテファン(Karl August Wilhelm Nicolaus Alexander Michael Bernhard Heinrich Friedrich Stephan)。カール・アウグストはザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国軍に所属し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の戴冠式に出席した[1][2]。またロシア帝国陸軍イングリア驃騎兵連隊の中尉でもあった。 余暇には、銅版画と硬貨の収集に打ち込んだ。また、大公図書館と新しく建設された史料館にも興味を持ち、そこで大公家の歴史に関する古文書を頻繁に調べていた[3]。 1873年8月26日、フリードリヒスハーフェンにおいて同族のヘルマン大公子の娘で再従妹にあたるパウリーネと結婚した。ちょうどヴェルディのオペラ『アイーダ』のヴァイマルでの初演が重なったため、結婚式は予定日よりも延期された。 カール・アウグストの母ゾフィーはオランダ王位継承順位において、王位継承者だったウィルヘルミナ王女に次ぐ立場にあり、したがってウィルヘルミナに子供が出来ない場合、オランダ王位継承権はゾフィーの子孫に移ることになっていた。カール・アウグストはオランダ王位の相続人だったこともあって、オランダ語に堪能だった。 結核に罹って長く病気に悩まされたカール・アウグストは、気候の良いとされるマントンで療養生活を送った。1894年11月20日、南フランスのロクブリュヌ=カップ=マルタンで父カール・アレクサンダーに先立って死去した。遺体はザクセン大公家の地下納骨堂に埋葬された。 子女パウリーネとの間に2男を儲けた。
系譜
脚注
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