カシモフ・ハン国
カシム・ハン国(タタール語: قاسم خانليغى, ラテン文字転写: Qasim Khanlighaa、キリル文字転写: Касыйм ханлыгы)は、15世紀から17世紀にかけて存在した、タタール人ムスリムの政治体。カシモフ・ハン国(ロシア語: Касимовское ханство)とも。 モスクワ大公国の主権下において、モスクワとカザンの間に建てられた緩衝国で、当初は自治を行っていたが、後に都カシモフの市政に至るまで、全てがロシア人の影響下に置かれた。 歴史都カシモフ(現在のロシア連邦リャザン州)はオカ川流域に位置し、もともとはウラジーミル=スーズダリ公国がフィン人の土地であったメシチョーラに建設した都市・ゴロデツである。ゴロデツは13世紀にモンゴルの征服を受けてジョチ・ウルスの支配下に入り、14世紀後半から15世紀前半にかけてタタール人とロシア人の間で争奪された。1445年には、サライの君主の一人でカザン・ハン国を建てたウルグ・ムハンマドが、モスクワ大公ヴァシーリー2世に勝利して領有権を割譲されたという。 その後、ウルグ・ムハンマドの子カースィム[1]がその兄マフムードとの政争に敗れてモスクワに亡命すると、カースィムはヴァシーリー2世からメシチョーラの地を与えられ、その拠点ノヴィ・ニゾヴォイはカシモフ(「カースィムの町」という意味に由来する)と呼ばれるようになった[2]。1452年、カースィムはモスクワの庇護によって君主位に即き、カシム・ハン国(「カースィムのハン国」)が成立した[3]。 カースィムの血統が2代で断絶した後[3]、カシムの君主としてジョチ・ウルスの各ハン国(カザン、クリミア、サライ、シビル)からモスクワに亡命してきたジョチ裔の王族たちがモスクワ大公によって擁立された[4]。カシモフ在住のタタール人たちもまた亡命者、移住者などからなっており、彼らは主にカザン・ハン国からやってきたカザン・タタール人であった。イスラムの信仰と、タタールの部族的紐帯を保ちながら、モスクワ大公国の庇護下に入った彼らのことをカシモフ・タタール(カースィム・タタール)といい、他のタタール系諸ハン国と同様にシリン、バールィン、アルグィン、キプチャク、マンギトなどの有力部族の長(カラチ・ベグ)たちが貴族階層を形成して[5]部族民を従えていた。カシム・ハン国のタタール人は、イスラムの信仰を保つことが前提となっており、キリスト教に改宗したときは君主といえどもその地位を捨てなければならなかった。 15世紀の後半から16世紀の前半にかけては、カシム・ハン国はモスクワ大公国にとってカザン・ハン国との間の緩衝国として重要であり、カシモフの君主もモスクワのカザン攻撃にたびたび参加した[6]。また、1518年にカザン・ハン国でウルグ・ムハンマド直系の血統が絶えると、カシモフ君主のシャー・アリーが3度、加えてジャーン・アリーがモスクワによってカザンの君主として送り込まれている。 1552年にカザン・ハン国がモスクワ大公国に併合された後、戦略的価値の低下したカシム・ハン国では自治権が廃止され、カシモフの町にはロシア人の州長官が派遣された。しかし、チンギス・ハーンの男系子孫として高貴な血統を誇るカシム・ハンの権威はその後も長く残り、1573年にキリスト教に改宗して退位したサイン・ブラト(ロシア語名:シメオン・ベクブラトヴィチ)は1574年から1576年の間、一時的にイヴァン4世から全ルーシの大公の地位を譲られたこともある。 しかし17世紀に入ると、1626年から50年以上に渡ってカシモフの君主位にあったサイイド・ブルハン(ロシア語名:ヴァシーリー・アルスラノヴィチ)の代に、カシモフ・タタールのキリスト教化・ロシア化政策が進められた。1681年、サイイド・ブルハンの母であったファーティマ・スルターナが没すると、カシム・ハン国はロシア・ツァーリ国(モスクワ大公国)によって併合された。 歴代君主カザン系 クリミア系
大オルダ系
カザフ系 シビル系
系図
出典参考資料
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