カエソ・クィンクティウス・クラウドゥス
カエソ・クィンクティウス・クラウドゥスまたはガイウス・クィンクティウス・クラウドゥス(ラテン語: Kaeso Quinctius Claudus, Gaius Quinctius Claudus、生没年不詳)は紀元前3世紀初頭の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前271年に執政官(コンスル)を務めた。 出自パトリキ(貴族)であるクィンクティウス氏族の出身。父のプラエノーメン(第一名、個人名)はルキウス、祖父はグナエウスであるが、他のクィンクティウス氏族の人物との関係は不明である。カエソというプラエノーメン(第一名、個人名)も珍しく、氏族の中では紀元前5世紀の伝説的な人物であるルキウス・クィンクティウス・キンキナトゥスの息子が使っている程度である[1]。ティトゥス・リウィウスは、他に紀元前217年にコンコルディア神殿に関わったカエソ・クィンクティウス・フラミニヌスの名前をあげている[2]。 経歴紀元前271年、クラウドゥスは執政官に就任。同僚執政官はルキウス・ゲヌキウス・クレプシナであった[3]。リウィウスの要約ではこの年に、レギウム(現在のレッジョ・ディ・カラブリア)のカンパニア兵が反乱したが鎮圧され、またピケンティアと平和条約が結ばれたとするが、クラウドゥスの役割は不明である[4]。但し、ハリカルナッソスのディオニュシオスは、レギウムの反乱は翌紀元前270年の出来事としている[5]。 脚注参考文献
関連項目
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