エリーザベト・ゾフィー・フォン・ブランデンブルク (1674-1748)
エリーザベト・ゾフィー・フォン・ブランデンブルク(Elisabeth Sophie von Brandenburg[-Schwedt], 1674年4月5日 - 1748年11月22日)は、ドイツのブランデンブルク=シュヴェート辺境伯家の公女。 生涯ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)とその2番目の妻でグリュックスブルク公フィリップの娘であるドロテア・ゾフィーの間の次女として生まれた。エリーザベト・ゾフィーとその同母の兄弟姉妹は系譜上において、母ドロテアの創設したブランデンブルク=シュヴェート辺境伯家に属し、異母兄のプロイセン王フリードリヒ1世とは系統を異にすると見なされる。 1691年4月29日、ベルリンにおいて従兄のクールラント公フリードリヒ・カジミールと結婚したが、1698年に死別した。エリーザベト・ゾフィーは1700年に大北方戦争の戦火を避け、幼い息子を連れて異母兄のフリードリヒ1世の宮廷に逃れている。 1703年3月30日にポツダムにおいて、30歳年上のバイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストと再婚した。すでに年老いていたクリスティアン・エルンストは完全に年若い妻の言いなりとなり、「プロイセンの総督(„preußischer Statthalter“)」と呼ばれるほどブランデンブルク=プロイセンに従順な態度を示した。辺境伯はエアランゲン宮殿をエリーザベト・ゾフィーに与え、1704年にはこの宮殿を妻の名前にちなんで「エリーザベト城(Elisabethenburg)」と改称した。1712年にクリスティアン・エルンストが死ぬまで、エリーザベト・ゾフィーは豪奢な暮らしを楽しみ、バイロイト宮廷の財政を著しく悪化させた。 1714年6月3日にコーブルクのエーレンブルク城において、ザクセン=マイニンゲン公エルンスト・ルートヴィヒ1世と3度目の結婚をした。1724年の夫の死後、24年間の寡婦生活ののちに、隠居所として与えられたレームヒルトのグリュックスブルクの城館(Schloss Glücksburg)で死去し、マイニンゲンの教会に葬られた。 子女最初の夫フリードリヒ・カジミールとの間に息子を2人もうけた。
参考文献
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