エリック・アサドゥリアン
エリック・アサドゥリアン(ラテン語: Éric Assadourian, アルメニア語: Էրիկ Ասադուրյան, 1966年6月24日 - )は、フランス・サン=モーリス出身の元サッカー選手、元アルメニア代表。現サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード。 経歴クラブユース時代をフランス国立サッカー施設の1つINFヴィシーにて研鑽を積み、1986年8月にディヴィジオン・アン (1部)のトゥールーズFCからプロキャリアを開始[1]し、ASモナコ戦で初出場を飾る[2]。トゥールーズでは当初控えだったが、ディヴィジオン・ドゥのEAギャンガンへの期限付き移籍から復帰後は、定位置を確保し、ジャック・サンティニ監督の下でオマール・ダ・フォンセカ、アルベルト・マウリシオ、ドミニク・ロシュトーらと共に攻撃を担った[2]。 1990年7月、かつて師事したサンティニ監督率いるリールと契約する[2]。リールに在籍した5シーズンにおいて、6人の監督の指導、また、攻撃陣を様々な選手が入れ替わり立ち代りで起用されていたが、自身は一貫してレギュラーでプレーし、178試合27得点を記録する[2]等、全盛期を迎えており、その活躍がオリンピック・リヨンのジャン=ミシェル・オラス会長の目に留まり、1995年6月に3年契約で引きぬかれた[3]。しかし、UEFAカップ1995-96のSSラツィオ戦で1得点1アシスト[4]、クープ・ドゥ・ラ・リーグで決勝進出に貢献したものの、全体的なパフォーマンスを理由に僅か1シーズンで退団することになる。1996-97シーズンは、過去に在籍したギャンガンでのスタートとなり[5]、UEFAインタートトカップ 1996を制しているが、負傷の影響もあってリーグ戦では9試合と振るわず、しばしばリザーブチームで起用されており、クープ・ドゥ・フランス決勝は未出場に終わった。 1997-98シーズンもギャンガンに所属していたが、出場機会を得ることが出来なかった。その為、シーズン途中でディヴィジオン・ドゥ (2部)のCSルーアン-キュイゾーへ移籍することになると、従来のサイドハーフと違いフォワードとして8得点と一定の数字を残すも、チームの降格を防ぐことは出来ず、翌1998-99シーズンに移籍したASボーヴェ・オワーズでもフォワードとして13得点を挙げたにもかかわらず、再度チームの降格を経験した。 1999-2000シーズン、自身と同じくアルメニアに起源を持つASOAヴァランスと契約する。ヴァランスでは、フォワード及びミッドフィルダーとして奮闘するも3度目となるフランス全国選手権 (3部)を経験する。翌2000-01シーズンも残留すると、3部のチームながらクープ・ドゥ・ラ・リーグとクープ・ドゥ・フランスの両方でベスト16進出に貢献し、リーグ戦では6得点を挙げた。 代表世代別のフランス代表としてエリック・カントナ、ジョスリン・アングロマらと共にプレーした後、アルメニアのエレバン出身の父に持つアサドゥリアンは、1998 FIFAワールドカップを目指し、1996年にアルメニアA代表としてプレーすることを決意し[1]、1996年10月5日に1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選の北アイルランド戦 (1-1)において初出場を飾り、1997年8月20日の同予選ポルトガル戦 (1-3)において初得点を記録した[1]。 ワールドカップ出場を逃した後も招集され、UEFA EURO 2000予選にも参加していたが、1999年3月31日のフランス戦を目前にして監督から戦力外を言い渡された[1]。 指導者2001年7月に現役引退をした[2]後は、まず、2004-05シーズンにスタッド・ブレスト29のU-18チームを率いて[6]2005年まで在籍する[7]。2008年からはRCランスのU-18チームを指導し、フランスU-18選手権優勝に導くと、2011年にはフランスアマチュア選手権のBチームを担当[8]し、7位でシーズンを終了した。2012年から2014年までレフウィヤSC (カタール1部)のBチームやユースチームを指揮した後、2014年6月にU-19チームの監督としてブレストに9年ぶりに復帰した[7][9]。 個人成績クラブでの成績
代表での成績出典:[12]
代表での得点出典:[13]
獲得タイトル
脚注
外部リンク
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