エドワード・ヴォーン (英語 : Edward Vaughan 、1661年以前 – 1718年 12月5日 )は、ウェールズ 出身の政治家。1679年から1718年までの39年間にわたってモンゴメリーシャー選挙区 (英語版 ) 選出の庶民院 議員を務めた。1718年3月から12月までの短期間にわたって、連続在任期間の最も長い現職議員だった(現代でいう議会の父 (英語版 ) [ 1] )。
生涯
ハウェル・ヴォーン(Howel Vaughan 、1669年没)とエリザベス・ジョーンズ(Elizabeth Jones 、ハンフリー・ジョーンズの娘)の長男として生まれた[ 2] 。父ハウェルは遠戚にあたるエドワード・ヴォーン (英語版 ) (1661年10月没[ 3] )からスイディアルス (英語版 ) とスランゲドウィン (英語版 ) を継承しており、1669年にハウェルが死去するとエドワードがそれを継承した[ 4] 。
1672年8月24日にメアリー・パーセル(Mary Purcell 、1727年12月8日没、ジョン・パーセル (英語版 ) の娘)と結婚、1男2女をもうけたが、息子に先立たれた[ 2] 。
1670年にモンゴメリーシャー の、1672年にデンビーシャー の、1678年にメリオネスシャー の治安判事 に就任するなど地元の名士になり[ 2] 、1679年1月にはモンゴメリー・バラ選挙区 (英語版 ) の補欠選挙に出馬した[ 6] 。投票結果はヴォーンが優勢であるとみられたが、1661年から1679年まで続いた騎士党議会 (英語版 ) が解散された後だったため、この投票は無効となった[ 6] 。直後の1679年3月イングランド総選挙 ではモンゴメリー・バラ選挙区の代わりにモンゴメリーシャー選挙区 (英語版 ) から出馬、スイディアルスの地所を所有したことによる影響力をもって当選した[ 7] 。
1680年代までは第1次王位排除法案 (1679年)に反対票を投じたこと以外の議会活動が少なかったが[ 2] 、1679年10月 、1681年 と再選を重ねた[ 7] 。1688年1月に総選挙への立候補を阻止するためにモンゴメリーシャー州長官 (英語版 ) に任命されたが、結局1688年に総選挙が行われることはなkった[ 2] 。同年に審査法 廃止への反対を表明、4月に3州の治安判事から解任されたが、10月に再び任命された[ 2] 。
名誉革命 にあたり、最初はジャコバイト に同情的だった、後に「裏切った」という[ 4] 。名誉革命によるヴォーンの影響の1つとして、モンゴメリーシャー選挙区における支配を揺るぎないものにしたことが挙げられる。ポウィス城 (英語版 ) を所有していた初代ポウィス侯爵ウィリアム・ハーバート はモンゴメリーシャーにおける影響力が大きかったが、彼はジャコバイトであり、名誉革命の後に亡命して財産を没収されている[ 8] 。国王ウィリアム3世 はポウィス侯爵の財産をオランダ出身の初代ロッチフォード伯爵ウィリアム・ナッソー・ド・ザイレステイン (英語版 ) に与えたが、ロッチフォード伯爵は選挙区への影響力を育てなかった[ 8] 。また、モンゴメリー城 (英語版 ) を所有していたハーバート家は1691年に第4代チャーベリーのハーバート男爵ヘンリー・ハーバート (英語版 ) が死去して家系が断絶した[ 8] 。これにより、ヴォーンと戦える勢力がいなくなり、ヴォーンは再選を重ねて[ 8] [ 9] 最終的には合計で16選した[ 10] 。16選した後の1718年3月から12月まで、連続在任期間の最も長い現職議員だった(現代でいう議会の父 (英語版 ) [ 1] )。
1690年の議員リストでは初代カーマーゼン侯爵トマス・オズボーン がヴォーンの所属党派について「疑わしい」(doubtful )と分類したが、1690年代以降の投票傾向からトーリー党 支持が明らかである[ 4] 。同時期には頻繁に庶民院の会議を欠席したが、1710年にヘンリー・サシェヴェレル (英語版 ) の弾劾に反対するなど肝心の採決に欠席することは少なかった[ 4] (ただし、ヴォーン姓の議員は同時期に複数いたため、史料での記述がエドワード・ヴォーンによる行動であると証明することが難しかったという[ 4] )。1711年1月7日から1718年に死去するまでメリオネスシャー首席治安判事 (英語版 ) を務めた[ 11] 。1716年、七年議会法案 (英語版 ) に反対票を投じた[ 10] 。
1718年12月5日に死去、スランゲドウィンで埋葬された[ 2] 。遺産は娘アンと結婚した第3代準男爵サー・ワトキン・ウィリアムズ=ウィン が継承した[ 5] 。これによりモンゴメリーシャー選挙区での影響力もウィリアムズ=ウィンに移り、彼の存命中に指名した人物は常に無投票で選出されている[ 9] 。
出典
^ a b "The Father of the House" (PDF) . Factsheet M3: Members Series (英語). House of Commons Information Office. June 2010. 2020年10月31日閲覧 。
^ a b c d e f g Naylor, Leonard; Jaggar, Geoffrey (1983). "VAUGHAN, Edward III (d.1718), of Glan-y-Llyn, Merion. and Llwydiarth, Mont." . In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月30日閲覧 。
^ Healy, Simon (2010). "VAUGHAN, Edward (c.1600-1661), of the Inner Temple, London and Llwydiarth, Llanfihangel yng Ngwynfa, Mont." . In Ferris, John P.; Thrush, Andrew (eds.). The House of Commons 1604-1629 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月30日閲覧 。
^ a b c d e Hayton, D. W. (2002). "VAUGHAN, Edward (d. 1718), of Llwydiarth, Mont." . In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline ; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月30日閲覧 。
^ a b c Cruickshanks, Eveline (1970). "WILLIAMS (afterwards WILLIAMS WYNN), Watkin (?1693-1749), of Wynnstay, Denb." . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月30日閲覧 。
^ a b Naylor, Leonard; Jaggar, Geoffrey (1983). "Montgomery Boroughs" . In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月30日閲覧 。
^ a b Naylor, Leonard; Jaggar, Geoffrey (1983). "Montgomeryshire" . In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月30日閲覧 。
^ a b c d Hayton, D. W. (2002). "Montgomeryshire" . In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline ; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月30日閲覧 。
^ a b Thomas, Peter D.G. (1970). "Montgomeryshire" . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月30日閲覧 。
^ a b Thomas, Peter D.G. (1970). "VAUGHAN, Edward (d.1718), of Llwydiarth, Mont." . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月30日閲覧 。
^ Sainty, John Christopher (November 2002). "Custodes Rotulorum 1660-1828" . Institute of Historical Research (英語). 2019年7月13日時点のオリジナル よりアーカイブ。2020年10月4日閲覧 。