エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ[1](フランス語: Étienne de La Boétie [etjɛn də la bɔesi] ( 音声ファイル)、また[bwati]、[bɔeti][2] 、1530年11月1日 - 1563年8月18日)は、フランスの裁判官、人文主義者。エティエンヌ・ド・ラ・ボエティやラ・ボエシーと表記されることもある。 略歴サルラ=ラ=カネダ生まれ[1]。両親とも法官貴族の家系であったが、早くに孤児となり叔父に養育され、父と同じ法官の道を歩んだ。 オルレアン大学に進み、法学や人文学を学んだ[1]。オレルアン大学の卒業論文として、23歳の頃に『自発的隷従論』を執筆した。(親友であるモンテーニュは「16歳」「18歳」の頃の著作と述べているが、実際には大学卒業時の23歳の時である。堀田善衞著「ミシェル城館の人 第1巻」より) 「圧制は支配される側の自発的な隷従によって永続する」という支配・被支配構造の本質を見抜いたとされる[1]。この論文は筆稿として当時の知識人の間で広く読まれた。後にも大革命時の1789年や1792年にも新刊が出された。 1554年ボルドーの高等法院に評定官として着任。1561年1月に出されたオルレアン寛容勅令に対しては「混乱を招く」とし、建言書「正月勅令に対する意見書」を執筆した。ボルドーの高等法院同僚のミシェル・ド・モンテーニュと親交を深くした[1]。 1563年8月18日、ペストとみられる病症で死亡した。詩人、翻訳家、著作家としてパリにも名を知られる存在であった。臨終の床でモンテーニュに「死はそれほどに悪いものではないさ」と語り、自分の死を悲しむ人々に逆に慰めの言葉をかけつつ死去した。 著作
脚注関連文献
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