エステル・テイラー (Estelle Taylor、1894年 5月20日 - 1958年 4月15日 )は、主に1920年代 ハリウッド のサイレント映画 時代に活躍したアメリカ合衆国 の女優 [ 1] 。
生い立ち
デラウェア州 ウィルミントン でユダヤ人 の家庭にイーダ・エステル・テイラーとして出生[ 2] 。父親のハリー・D・テイラー(1871年生)は、デラウェア州出身[ 3] 、母親のイーダ・ラバーサ・バレット(1874年–1965年)はペンシルベニア州 イーストン 出身、後にフリーのメークアップ・アーティストとなった[ 4] 。両親は1903年に離婚[ 5] 。1898年に生まれた妹のヘレン・テイラーは[ 6] 、サイレント映画にエキストラ として出演した[ 7] [ 8] 。
1910年には母方の祖父母、チャールズ・クリストファー・バレット、イーダ・ラウバーと一緒に暮らしていた[ 9] 。高校・大学と地元ウィルミントンで学んだ[ 10] 。1911年、銀行支配人のケネス・マルコム・ピーコックと結婚[ 11] 。
経歴
初舞台を踏んだのはミュージカルの『Come On, Charlie』である[ 12] 。ハリウッドに転居後、端役として映画に出演するようになる。テイラーの最も初期のヒット映画の1つがマーク・マクダーモット (英語版 ) と共演したフォックス の『紐育の丑満時 (英語版 ) 』(1920年)である。この3部に分かれている映画で、テイラーとマクダーモットはその都度違う役を演じている。
1922年、『巌窟王 (英語版 ) 』でジョン・ギルバート と共演、ニューヨーク・ヘラルド の批評家は「テイラー嬢は冒頭の、或いは恋人であった節同様に復讐の段でも印象的である。単なる無口な自動人形には陥らない、クローズアップに耐える優れた表情の演技があった。」と書いた[ 13] 。
最も成功した役の1つが、サイレント映画時代最大のヒット作に数えられるセシル・B・デミル 監督の『十誡 』でセオドア・ロバーツ が演じたモーゼ の姉ミリアム 役である。デミル作品における演技は最大の功績と考えられている[ 14] 。
メアリー・ステュアート に扮するテイラー、「Stars of the Photoplay」(1924年)より
関節炎に罹っていたがメアリー・ピックフォード 主演の『ドロシー・ヴァーノン (英語版 ) 』(1924年)でメアリー・ステュアート 役を射止めた。1926年、彼女はリポーターに「私の長期の病気がせめて、不幸な虐げられたスコットランド女王の苦しみの表現にリアリティを持たせる助けに、少しでもならないかと思いました。」と語った[ 14] 。
1926年、ワーナー・ブラザース の『ドン・ファン 』でルクレツィア・ボルジア を演じた。同期するヴァイタフォン による音響効果と音楽が付いた最初の長編映画で、ジョン・バリモア 、メアリー・アスター 、ワーナー・オーランド (英語版 ) も出演している。バラエティ 誌はテイラーによるルクレチアの描写を称賛した。「完全に意表を突かれたのはルクレツィア・ボルジア役のエステル・テイラーの演技である。彼女のルクレツィアは素晴らしかった。実際にルクレツィアとはこういう女性だったのではないかと思わせるような、冷笑的な佇まいを作り上げている。[ 15] 」
ルドルフ・ヴァレンティノ と共演するはずであったが、撮影が始まる直前に彼が亡くなった[ 16] 。サイレント時代最後期の映画の1つが、リカルド・コルテス (英語版 ) とロイス・ウィルソン (英語版 ) 主演の『ニウ・ヨーク』(New York、1927年)である。
1928年、当時の夫ジャック・デンプシー と共に『The Big Fight』と銘打った、デンプシーのボクサー人気にあやかったブロードウェイ の舞台に主演、マジェスティック劇場で31回公演であった[ 17] 。
テイラーはサイレントからトーキー への移行に成功した。初のトーキー出演はコミカルタッチの『Pusher in the Face』(1929年)である[ 10] 。主なトーキー出演作としてシルヴィア・シドニー と共演した『街の風景 (英語版 ) 』(1931年)、リチャード・ディックス (英語版 ) とアイリーン・ダン が主演しアカデミー作品賞 を獲得した『シマロン 』(1931年)、クララ・ボウ 主演の『ミス・ダイナマイト (英語版 ) 』などが挙げられる。ジャン・ルノワール 監督の『南部の人 』(1945年)が最後の出演作となった。
私生活
妻のエステルを肩に乗せるデンプシー(1925年、シカゴ )
テイラーは3回結婚している。最初の夫は銀行家のケネス・マルコム・ピーコック[ 18] 、2人目の夫はボクシング世界ヘビー級チャンピオンのジャック・デンプシー [ 19] 、3人目の夫は舞台プロデューサーのポール・スミス[ 18] 。いずれの結婚でも子供はできなかった。
晩年、自由時間をペット に注ぎ込み、カリフォルニアのペットオーナー保護連盟の創設理事長となった[ 10] 。1953年には、ロサンゼルス で市の動物規則委員会に務めた[ 10] 。
死去
1958年、ガンとの闘病の末に死去[ 10] [ 12] 、ハリウッド・フォーエバー・セメタリー (英語版 ) に埋葬された。
映画界への貢献により、ヴァインストリート1620のハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム にエステル・テイラーの星型プレートがある[ 20] 。
映像による描写
1983年、デンプシーの伝記テレビ映画『ダイナマイト・ヒーロー 恐怖の鉄拳 (英語版 ) 』で、イギリスの女優ヴィクトリア・テナント がエステル・テイラーを演じている。
フィルモグラフィ
脚注
^ Tammy Stone. “Estelle Taylor in The Silent Collection ”. 2016年2月25日 閲覧。
^ Estelle Taylor biodata
^ “Harvey D Taylor - United States Census, 1900 ”. FamilySearch . 2016年2月25日 閲覧。
^ “Obituary - Bertha Boylan”. Variety . (August 26, 1965)
^ “Ida Labertha Or Labertha Barrett mentioned in the record of Fred T. Krech and Ida Labertha Or Labertha Barrett ”. FamilySearch . 2016年2月25日 閲覧。
^ “Helena G Taylor - United States Census, 1900 ”. FamilySearch . 2016年2月25日 閲覧。
^ Schallert, Edwin and Elza (October 1923). “Hollywood High Lights” . Picture-Play Magazine . https://archive.org/stream/pictureplaymagaz19unse#page/n179/mode/2up/search/estelle+taylor 2016年2月25日 閲覧。
^ Schallert, Edwin and Elza (April 1924). “Hollywood High Lights” . Picture-Play Magazine . https://archive.org/details/pictureplaymagaz20unse/page/n195/mode/2up/search/Helen+Taylor?view=theater 2016年2月25日 閲覧。
^ “Estella Barrett - United States Census, 1910 ”. FamilySearch . 2016年2月25日 閲覧。
^ a b c d e “Estelle Taylor, Silent Film Charmer, Dies” . The Deseret News . INS. (April 15, 1958). https://news.google.com/newspapers?nid=336&dat=19580415&id=wvQvAAAAIBAJ&sjid=V0gDAAAAIBAJ&pg=6930,3148102&hl=en 2016年2月25日 閲覧。
^ “New York Accepts Estelle As Real Star” . The Sunday Morning Star . (January 9, 1921). https://news.google.com/newspapers?nid=2293&dat=19210109&id=HuVfAAAAIBAJ&sjid=FgMGAAAAIBAJ&pg=3142,3053937&hl=en 2016年2月25日 閲覧。
^ a b “Estelle Taylor Dies; Cancer Victim, 58” . The Lewiston Daily Sun . Associated Press. (April 16, 1958). https://news.google.com/newspapers?nid=1928&dat=19580414&id=T5YgAAAAIBAJ&sjid=OGgFAAAAIBAJ&pg=6363,4507136&hl=en 2016年2月25日 閲覧。
^ “Estelle Taylor Gets First Rank In New William Fox Picture” . The Sunday Morning Star . (August 13, 1922). https://news.google.com/newspapers?nid=2293&dat=19220813&id=FQ4nAAAAIBAJ&sjid=RwMGAAAAIBAJ&pg=1018,7682939&hl=en 2016年2月25日 閲覧。
^ a b Taylor Dempsey, Estelle; (as told to) Barker, Lillian (February 21, 1926). “Not Beauty But Personality, Intelligence and Determination Win Success in Movies” . The Sunday Morning Star . https://news.google.com/newspapers?nid=2293&dat=19260221&id=vd4mAAAAIBAJ&sjid=pgIGAAAAIBAJ&pg=1590,2267954&hl=en 2016年2月25日 閲覧。
^ “Review: ‘Don Juan’ ”. Variety (1925年12月31日). 2016年2月25日 閲覧。
^ “Theater Gossip” . The Evening Independent . (January 22, 1927). https://news.google.com/newspapers?nid=950&dat=19270122&id=HpoLAAAAIBAJ&sjid=gVQDAAAAIBAJ&pg=4963,2646512&hl=en 2016年2月25日 閲覧。
^ “"The Big Fight" Majestic Theatre, (9/18/1928 - circa. 10/1928) ”. IBDb.com . 2016年2月25日 閲覧。
^ a b “Estelle Taylor Separates From Her Third Husband” . The Evening Independent . (1944年5月27日). https://news.google.com/newspapers?nid=950&dat=19440527&id=sv5PAAAAIBAJ&sjid=JlUDAAAAIBAJ&pg=2147,4949606&hl=ja 2016年2月25日 閲覧。
^ “Jack Dempsey Married (newsreel) ”. British Pathé (February 25, 1925). 2016年2月25日 閲覧。
^ “Estelle Taylor - Hollywood Star Walk ”. Los Angeles Times . 2016年2月25日 閲覧。
外部リンク