ウワディスワフ・シュピルマン

ウワディスワフ・シュピルマン
基本情報
生誕 (1927-11-09) 1927年11月9日
ポーランド立憲王国 ソスノヴィエツ
死没 (2000-07-06) 2000年7月6日(88歳没)
ポーランドの旗 ポーランド ワルシャワ
学歴 ショパン音楽院
ベルリン音楽大学
ジャンル クラシック音楽
職業 ピアニスト
担当楽器 ピアノ

ウワディスワフ・シュピルマンポーランド語: Władysław Szpilman1911年12月5日 - 2000年7月6日)は、ユダヤ系ポーランド人のピアニスト作曲家ホロコースト生還者。

生涯

ワルシャワにあるシュピルマンの墓

1911年、ポーランド立憲王国ソスノヴィエツで生まれた。幼少時からフランツ・リスト弟子であったヨセフ・ミスドヴィッチアレクサンデル・ミハロフスキ英語版ポーランド語版に師事し、ピアノを学んだ。ワルシャワショパン音楽院ピアノを学び、20歳からベルリン音楽大学レオニード・クロイツァーアルトゥール・シュナーベルに師事した。

1933年から終戦まで

しかし、1933年ヒトラーが政権を掌握したことにより2年でポーランドへ帰国。ワルシャワポーランド放送のピアニストとして音楽家活動を始めた。この時代、シュピルマンはクラシック音楽の演奏活動のほか、数多くの大衆音楽を作曲し、自らも演奏した。なかでも彼が作曲し、カジミェシュ・ヴィンクラー(Kazimierz Winkler)が作詞した明るいジャズ調の歌謡曲『ワルシャワの赤いバス』("Czerwony Autobus")がよく知られている。

1939年にヒトラーのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。ドイツ占領下のポーランドでナチス・ドイツによるユダヤ人への大量虐殺(ホロコースト)を目の当たりにした。家族全員が絶滅収容所送りとなり、ワルシャワ蜂起後の廃墟を逃亡する中、ドイツ軍の将校ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉によって命を救われた。

戦後

戦後はポーランド放送へ復職。1946年に戦時中の体験をまとめた『ある都市の死』(Śmierć miasta)を出版し、2002年にはこれを原作とした映画『戦場のピアニスト』が公開された。2000年脳溢血を発症し、ワルシャワで入院中に死去した。

演奏活動

世界中で2000回以上の演奏活動を行なうとともに、戦前から戦後にかけて、数多くの映画音楽、管弦楽作品、大衆歌、ポピュラー音楽を作曲して、ポーランドの大衆音楽史にその名を残した。作曲は一部フランツ・シュレーカーに学んだとも言われている。1972年までに幼児・児童向けの愛唱歌やポップスも含めて約500曲を作曲した。1961年にはオーガナイザーの一人としてポップスの祭典「ソポト国際音楽フェスティバル」を初開催した。1963年に結成したジャズ・ポップス・クラシックなど幅広いジャンルを扱うワルシャワ・ピアノ・クインテット[注釈 1]の初代メンバーの1人としては1986年(75歳)まで国内外で精力的に演奏活動をした。

家族・親族

関連文献

フランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作で制作され、2002年に公開された映画の原作。

脚注

注釈

  1. ^ メンバーはブロニスワフ・ギンペルタデウシュ・ヴロンスキなど。1964年にはコンサートのために来日している。

出典