ウィンチェスター侯爵
ウィンチェスター侯爵(ウィンチェスターこうしゃく、英語: Marquess of Winchester)はイングランド貴族の侯爵位。テューダー朝の廷臣ウィリアム・ポーレットが1551年に叙されたのに始まり、その男系子孫ポーレット家に代々継承されている。1689年に6代ウィンチェスター侯爵チャールズ・ポーレットがボルトン公爵に叙せられたことで以降6代にわたってウィンチェスター侯爵位はボルトン公爵位の従属爵位となっていたが、1794年にボルトン公爵位が廃絶。それ以降はウィンチェスター侯爵位が最上位爵位に戻って現在まで存続している。2022年現在の保有者は19代ウィンチェスター侯爵クリストファー・ポーレットである。 歴史宮内長官、王室家政長官、枢密院議長、大蔵卿などの官職を歴任したテューダー朝の廷臣ウィリアム・ポーレット (1483頃-1572) は、1539年3月9日にイングランド貴族爵位ベイジングのセントジョン男爵(Baron St John of Basing)、1550年1月19日にイングランド貴族爵位ウィルトシャー伯爵(Earl of Wiltshire)、そして1551年10月12日にウィンチェスター侯爵に叙せられた[1][2]。彼は1535年にハンプシャー・オールド・ベイジングにベイジング・ハウスを建設し、以降ここはウィンチェスター侯爵家の本邸となった[3]。 1572年に第4代ノーフォーク公爵トマス・ハワードが大逆罪で処刑されて唯一の公爵位だったノーフォーク公爵位が剥奪されて以降半世紀ほど公爵位が不在となったので唯一の侯爵位だったウィンチェスター侯爵がイングランド貴族の最高位となっていた[4]。 初代侯の玄孫にあたり、清教徒革命(イングランド内戦)期の当主である5代侯ジョン(1598頃–1674)はカトリック教徒の王党派だったため、ウィンチェスター侯爵家の邸宅ベイジング・ハウスは第一次イングランド内戦(1642年 - 1646年)で2回議会派に包囲された。1回目は1643年11月で、ウィリアム・ウォラーの議会軍に包囲されたが、守備隊の奮戦で退けた。2回目は1645年10月で、オリバー・クロムウェルが率いるニューモデル軍に1週間包囲され、前回とは異なり短期間で陥落、多くの美術品が兵士に略奪された末に放火され焼失、主の5代侯も議会派に捕らえられるという散々な結末となった[5]。 その息子の6代侯チャールズ(1630頃-1699) は、王政復古後の議会で庶民院議員、貴族院議員として活躍。名誉革命の際にはジェームズ2世を見限ってオラニエ公ウィレム3世(ウィリアム3世)を支持し[6]、その功績で革命成功後の1689年4月9日にはイングランド貴族ボルトン公爵 (Duke of Bolton) に叙位された[1][7]。 初代ボルトン公はベイジング・ハウスに残されていた建物を取り壊してハンプシャー・ベイジングストーク・ハックウッドに邸宅を立てた[8] 名誉革命後のボルトン公爵家の当主たちは代々ホイッグ党の議員を務めた[7]。 初代ボルトン公の孫にあたる3代ボルトン公・8代ウィンチェスター侯チャールズ・ポーレット (1685–1754) は襲爵前の1717年4月12日にベイジングのポーレット男爵 (Baron Pawlett of Basing) として繰上勅書の発行を受けて貴族院議員となっているが、本来は先述のベイジングのセントジョン男爵が侯爵の従属爵位であるため、新規にポーレット男爵位が創設されたものとみなされる(いわゆる錯誤により創設された男爵)。ただし、彼が嗣子なく没したため爵位は廃絶して、彼一代の問題で終わっている[9]。 初代ボルトン公の曽孫である6代ボルトン公・11代ウィンチェスター侯ハリー・ポーレット(1720–1794) が男子を残さず死去した際にボルトン公爵位の継承資格者はなくなり、廃絶した[7]。 一方、ウィンチェスター侯爵位・ウィルトシャー伯爵位・セントジョン男爵位は4代ウィンチェスター侯ウィリアム・ポーレット(1560頃–1628) の三男ヘンリー (-1672) の曽孫にあたるジョージ・ポーレット(1722–1800)(12代侯爵)に継承された[1][7]。 現在の当主はその7世孫にあたる19代ウィンチェスター侯クリストファー・ポーレット (1969 -) である。 紋章に刻まれるモットーは「勤王を愛せ (Aimez Loyaulte) 」[1] 現当主の保有爵位現当主クリストファー・ポーレットは以下の爵位を保有している[1]。
一覧ウィンチェスター侯 (1551年)
ボルトン公 (1689年)
ウィンチェスター侯 (1551年)
家系図
脚注注釈出典
参考文献
関連項目
|