ウィリアム・フォワード (第4代ウィックロー伯爵)第4代ウィックロー伯爵ウィリアム・フォワード(英語: William Forward, 4th Earl of Wicklow KP、出生名ウィリアム・ハワード(William Howard)、1788年2月13日 – 1869年3月22日)は、アイルランド貴族。1821年から1869年までアイルランド貴族代表議員を務めた[1]。1815年から1818年までクロンモア卿の儀礼称号を使用した[1]。 生涯第3代ウィックロー伯爵ウィリアム・ハワードと妻イリナ(Eleanor、旧姓コールフィールド(Caulfeild)、1807年4月2日没、フランシス・コールフィールド閣下の娘)の息子として、1788年2月13日にダブリンのラトランド・スクエア(現パーネル・スクエア)で生まれた[1]。1805年6月26日にケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに入学、1809年にM.A.の学位を修得した[2]。祖母にあたる初代ウィックロー女伯爵アリス・ハワード(旧姓フォワード)の遺産が父に継承されたとき、父が「フォワード」を姓に加えた(1815年に爵位を継承すると元に戻した)ため[1]、ウィリアム自身もフォワード姓を名乗り、以降死去するまでフォワード姓を名乗った。『ロンドン・ガゼット』では遺産継承に関する布告が「ウィックロー伯爵ウィリアム・フォワード閣下」(The Right Honourable William Forward, Earl of Wicklow)の表記となっているが[3]、『完全貴族名鑑』などウィリアムが後に姓をハワードに戻したとする文献もある[1]。 1818年9月27日に父が死去すると、ウィックロー伯爵位を継承した[1]。1821年にアイルランド貴族代表議員に選出され、1869年に死去するまで務めた[1][4]。議員としてはトーリー党に所属した[1]。 1831年10月7日にウィックロー統監に任命され、1869年に死去するまで務めた[5]。 1869年3月22日にメリルボーンのキャヴェンディッシュ・スクエア2号で死去、27日にスタンモアで埋葬された[1]。甥チャールズ・フランシス・アーノルドが爵位を継承した[1]。 家族1816年2月16日、セシル・フランシス・ハミルトン(Cecil Frances Hamilton、1795年7月19日 – 1860年7月7日、初代アバコーン侯爵ジョン・ジェイムズ・ハミルトンの娘)と結婚[1]、7女をもうけた[6]。
出典
外部リンク
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