イワン・モジューヒン
イワン・イリイチ・モジューヒン(Иван Ильич Мозжухин, 1889年9月26日 - 1939年1月18日)は、ロシア帝国(現ロシア)・フランスの俳優、脚本家であり、フランスの映画監督、撮影監督である。フランスではイヴァン・モジュキーヌ(Ivan Mosjoukine)、アメリカ合衆国ではジョン・モスキン(John Moskin)と名乗った。 人物・来歴1889年(明治22年)9月26日、ロシア帝国のサラトフ州(現在のロシアペンザ州)、ペンザ近くの小村コンドルに生まれる。 モスクワに出て、モスクワ大学で法学を学ぶ。1908年(明治41年)、映画に出演をしたのをきっかけに、友人と演劇を始める。1911年(明治44年)、ハンジョンコフ商会を率いるアレクサンドル・ハンジョンコフが製作したワーシリー・ゴンチャロフ監督の映画『セヴァストポリの防衛』に出演する。 1917年(大正6年)の二月革命勃発を受けて、ハンジョンコフとともにクリミア半島のヤルタに移住、白軍に守られて映画出演をつづける。 1920年(大正9年)、監督のアレクサンドル・ヴォルコフらとともにフランスに移住した。ロシア帝国の時代に、すでに80本以上の商業映画に出演したが、ソビエト連邦成立後は、過去に出演した作品のすべてが没収されて国有化され、検閲された。翌1921年(大正10年)、同地で映画『謝肉祭の夜』を監督、監督としてもデビューした。マルセル・レルビエやアベル・ガンスの映画に出演し、ルドルフ・ヴァレンティノに比され「ロシアのヴァレンティノ」と称された。 1926年(大正15年)、ユナイテッド・アーティスツに接触してアメリカに進出、エドワード・スローマン監督の『降伏』に出演するが、翌1928年(昭和3年)にはヨーロッパに帰り、ドイツを中心に映画に出演した。 1936年(昭和11年)、ジャック・ド・バロンセリ監督のフランス映画『地中海』に脇役で出演したのが最後の映画出演となり、同作は日本でも公開された。1939年(昭和14年)1月18日、フランスのオー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌで死去した。満49歳没。 家族長兄のアレクサンドル・モジューヒン(1878—1972)はバリトン歌手。ロシア革命後もロシアに留まり、ソ連オペラ界のスターのひとりとなった[1]。1920年代にはたびたび欧米で公演し、ハルピンを経由して1924年には来日し、山田耕筰の手配で日本各地で独唱会を催し、チャイコフスキーやリムスキー・コルサコフのオペラのアリアなどを披露した[1]。次兄・三兄ともロシア帝国軍将校で、反ソ活動が問われて逮捕され、消息不明。 クレショフ効果→詳細は「クレショフ効果」を参照
すでにモジューヒンがフランスに去ったのち、ソビエト連邦が成立した1922年(大正11年)、映画作家・映画理論家のレフ・クレショフが、全ロシア映画大学学内で行った、映画の「編集」と映像がもつ「意味」の関係についての実験に、モジューヒンの出演作品のアーカイヴ・フッテージが使用された。 おもなフィルモグラフィ
その他小説『ロリータ』で知られるウラジーミル・ナボコフの自伝『記憶よ、語れ』の中では、モジューヒンのファンだったナボコフ少年が、ヤルタでロケ中だったモジューヒン本人に遭遇するエピソードがある。 註
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