アンリエット・カトリーヌ・ド・ジョワイユーズ
アンリエット・カトリーヌ・ド・ジョワイユーズ(フランス語:Henriette Catherine de Joyeuse, 1585年1月8日 - 1656年2月25日)は、ジョワイユーズ女公(在位:1608年 - 1647年)。モンパンシエ公アンリ、後にギーズ公シャルル1世と結婚した。「ラ・グランド・マドモワゼル」アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンの祖母に当たる。 生涯アンリエット・カトリーヌは、ブシャージュ伯・ジョワイユーズ公アンリとカトリーヌ・ド・ノガレ・ド・ラ・ヴァレットの娘として1585年1月13日にルーヴル宮で生まれた。エペルノン公ジャン=ルイ・ド・ノガレ・ド・ラ・ヴァレットおよびフランス王アンリ3世の寵臣ジョワイユーズ公アンリの姪にあたる。 母カトリーヌが亡くなり、父アンリがカプチン修道会に入った後、アンリエット・カトリーヌは父方の祖母マリー・ド・バタルネーに引き取られて育てられた。1595年にマリーが亡くなると、アンリは娘を連れ戻した。 1597年5月15日、アンリエット・カトリーヌは13歳でモンパンシエ公アンリ・ド・ブルボン(1573年5月 - 1608年2月)と結婚し[1]、数年間叔父のフランソワ・ド・ジョワイユーズ枢機卿(1562年 - 1615年)に預けられた。モンパンシエ公アンリとの間には1女が生まれた。 1608年にモンパンシエ公アンリは死去し、1611年1月5日にアンリエット・カトリーヌは4代ギーズ公・ジョアンヴィル公シャルル1世(1571年 - 1640年)と結婚した。2人の間には10子が生まれた。
1620年、ジョワイユーズ(アルデシュ)にオラトリオ会の家を創建した[5]。 アンリエット・カトリーヌは、王族とともに敬虔な生活を送り、マリー・ド・メディシスの友人であったにもかかわらず、リシュリュー枢機卿に対する陰謀により、1635年3月にフィレンツェに追放された夫に従わざるを得なかった。アンリエット・カトリーヌは1640年9月に夫シャルル1世が亡くなるまでフィレンツェに留まった。 その後、アンリエット・カトリーヌはフランスに戻り、敬虔な活動に専念し1656年2月に71歳で亡くなった。アンリエット・カトリーヌはパリのカプシーヌ修道院の教会に埋葬されたが、棺は1854年ごろラ・ペ通りの清掃作業中に発掘されたとみられる[6]。 脚注
参考文献
関連項目ウィキメディア・コモンズには、アンリエット・カトリーヌ・ド・ジョワイユーズに関するカテゴリがあります。
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