アントン・ロマコ
アントン・ロマコ(ドイツ語: Anton Romako、1832年10月20日 - 1889年3月8日)は、オーストリア=ハンガリー帝国の画家。 生涯現在はウィーンの一部であるアツガースドルフで生まれた。ヨーゼフ・レッパーという家具製造の工場主とその家政婦、エリザベト・マリア・アンナ・ロマコ(Elisabeth Maria Anna Romako、姓はRhomako、Romakho、Hromádkoともされる。)の婚外子として生まれた。生家は代々チェコの高級家具職人であった[1]。母親からの姓をチェコ流に呼ぶと、「ロマコ」ではなく「フロマートコ Hromádko」である[1]。ウィーンでフェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラーとカール・ラールに師事した[1]。その後、修行のためにイタリアとスペインに行き、フランシスコ・デ・ゴヤの影響を強く受けた[1]。 長年ローマで活躍していた[2]。妻に逃げられ[1]、1876年にウィーンに戻ってきたが、祖国では評価されなかった[2]。注文の多くは時代の寵児であったハンス・マカルトのもとに持ち込まれてしまうため、ロマコにはあまり仕事が回ってこなかった[1]。ロマコは筆が早く、肖像画を描いて何とか生計を立てた[1]。 ロマコの最期は自然な病死だったが、自殺という噂も立った[1]。 評価と作風今日では、19世紀後半のオーストリア画家の中で、最も技量に優れていたと評価されている[3]。ロマコの肖像画は、モデルの特徴を的確に捉えたものであった[1]。 ロマコの最も有名な作品は、おそらく『リッサ海戦のテゲトフ提督』である[1]。これは、海戦の激しさが生々しく描かれている点で画期的であった。『リッサ海戦のテゲトフ提督』のように、瞬間性とバロック的な激しい動きを結び付けたロマコの絵画は、マカルトのものよりも芸術としての長い生命を持っている[1]。 ギャラリー
出典参考文献
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