アラン・ロアン (1853-1914)
アラン・ベンヤミン・アルトゥール・フュルスト・ロアン(Alain Benjamin Arthur Fürst Rohan, 1853年1月8日 - 1914年2月23日)は、オーストリア=ハンガリー(二重帝国)領ボヘミアの貴族・大土地所有者。ロアン家家長。オーストリア貴族としてロアン侯、フランス貴族としてモントーバン公爵、ブイヨン公爵、ロシュフォール公及びゲメネ公の爵位を有した。 生涯二重帝国陸軍少将の肩書を持つ軍人アルトゥール・ロアン侯子(1826年 - 1885年)と、その妻の伯爵令嬢ガブリエーレ・フォン・ヴァルトシュタイン=ヴァルテンブルク(1827年 - 1890年)の間の第2子・次男。末の妹マリア・ベルタは、1894年スペインのカルリスタ王位請求者マドリード公カルロス・マリアの後妻となった。 1882年5月1日付で第7竜騎兵連隊所属の予備役騎兵大尉の肩書を授けられた[1]。 1892年に大伯父カミーユ・ロアンからロアン侯その他の称号、北ボヘミアの広大な土地で構成される家族世襲財産、シフロフ城などを相続した。同時に、世襲のオーストリア貴族院議員席を引き継いだ[2]。議員としてはリベラル派に近い大土地所有者立憲派に属した。1908年、金羊毛騎士団騎士に任じられた。 子女1885年10月10日にプラハで、オーストリア首相を務めた政治家アドルフ・フォン・アウエルスペルク侯子の娘ヨハンナ(1860年 - 1922年)と結婚。夫婦の間には6人の子があった。
引用・脚注
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