アメリカン・バーレスク (英語: American burlesque) は、ヴァラエティショーのジャンルの一種で、主にストリップティーズやコメディアンによるお笑いなどを組み合わせたショーを指す。ヴィクトリア朝のバーレスク、ミュージックホール、ミンストレル・ショーなどからさまざまな要素を受け継いだアメリカ式のバーレスクは、1860年代から人気を博し、下ネタジョークなどの猥雑なコメディと女性のストリップティーズを特徴とするエンタテイメント形態に発展した。20世紀初頭までに、アメリカのバーレスクはストリップティーズとコメディをもとに、諷刺、パフォーマンスアート、ミュージックホール、成人向けエンタテイメントなど雑多なものを組み合わせた大衆的なショーとして上演されるようになった[1]。
この娯楽はキャバレー、クラブ、ミュージックホール、劇場などでよく上演された。1930年代から1940年代にかけて、バーレスクを上演する劇場や雑誌は「女の子と冗談!」("Girls and Gags!") や「お嬢さんとお笑い!」("Fillies and Fun!") などというキャッチフレーズを使ってこうした場所にお客を呼び込もうとしていた[2]。パフォーマーの多くは女性だったが、豪華で色鮮やかな衣類を着こみ、雰囲気のある音楽や劇的な照明をそなえた活人画などを舞台にかけていた。こうしたパフォーマンスの印象を強めるため、火吹きやコントーションなど珍奇な芸が披露されることもあった[3]。バーレスクというジャンルは伝統的に雑多な芸能を含むものであり、ストリップティーズアーティストに加えてシャンソン歌手やコメディアン、マイムのアーティスト、女性ダンサーなどが入り交じって登場し、いずれも諷刺的なスタイルで芸を披露していた。バーレスクの構成要素であるストリップティーズは地域によって徹底的な法的規制を受けることもあり、このため検閲当局と衝突しないように観客をやんわりと刺激する舞台芸術へと発展していった[1]。
アメリカン・バーレスクの主要な影響源としては、ヴィクトリアン・バーレスク、脚線美が売り物のレビューである「レッグ・ショー」、ミンストレル・ショーの3つがあげられる[15]。英国式のバーレスクは1840年代には既にニューヨークで上演され、成功をおさめていた[16]。リディア・トンプソン率いるブリティッシュ・ブロンズ一座は1868年にアメリカで初めて上演を行い、大きな人気を博した[17]。ミュージカルエクストラバガンザであるThe Black Crook (1866) のような「レッグ・ショー」も同時期に成功していた[18]。すぐにミンストレル・ショーも影響力を持つようになった。アメリカ最初のバーレスク一座のひとつであるレンツ=サントリー・ノヴェルティ・アンド・バーレスク・カンパニーは1870年にマイケル・B・レーヴィットが立ち上げたもので、レーヴィットはこれより前にミンストレル・ショーの女性版であるマダム・レンツ・フィメイル・ミンストレルズを作っていた[19]。アメリカン・バーレスクはすぐにミンストレル・ショーの3部構成形式を導入するようになった。第1部は女性の一団が演じる歌や踊りで、男性のコメディアンによる下世話なコメディも間に入る。第2部はさまざまな短い特殊演技・雑芸で、女性は登場しない。最後はグランドフィナーレがある。時としてショーの後にボクシングやレスリングの試合が行われることもある[15]。
チャーリー・チャップリンは1915年に映画『チャップリンのカルメン』(Burlesque on Carmen) に出演しているが、1910年にシカゴのバーレスクについて、「ほとんどは猥雑でたくさんの女たちが出てくるコメディ[25]」だったと述べている。20世紀初頭までには、全国を回るバーレスクショーの巡業ネットワークが2種類できた他、ウィンター・ガーデンのミンスキーズをはじめとして、ニューヨークなどには常時営業する一座があった[15]。バーレスク劇場のあっけぴろげな雰囲気に大きく貢献していたのが自由に酒を飲める環境であり、禁酒法施行は大打撃であった[26]。この時期に人気のあったバーレスクショーは結局ストリップティーズが多くを占めるものへと発達し、1920年代半ばにはバーレスクは完全に脱衣中心になった[23]。最初は若い女性たちが歌ったり踊ったりして美しい風采を見せるものであり、あまり動きがない場合は豪華な舞台衣装で見映えを補っていた[1]。エキゾティックでベリーダンスに似た「クーチ」ダンスが持ち込まれ、シリアが起源だという触れ込みで宣伝が行われた[15]。そのうち、ストリッパーがだんだん歌や踊りを披露するパフォーマーにとってかわるようになり、1932年までにはアメリカ合衆国中で少なくとも150人、ストリップティーズを売り物とするスターがいた[1]。伝統的なバーレスクからストリップティーズへの移行の様子は1968年の映画The Night They Raided Minsky'sなどでもとりあげられている[3]。
バーレスクショーの人気が衰えてきた頃、幅広い観客がパフォーマンスを見て楽しめるよう、映画がアメリカンバーレスクの心意気を伝える試みを始めた。バーレスク映画の多くは単にパフォーマーがショーをしているところを撮るだけで、しっかりした筋立てのある映画は多くはないものの、そうした作品もないわけではない[23]。たとえば、『妾は天使ぢゃない』 (1933) は筋のある映画だが、作中でメイ・ウエストがバーレスクショーを披露する[36]。1943年の『バーレスクの貴婦人』(Lady of Burlesque)はバーバラ・スタンウィックが主演で、殺人ミステリである一方、上映時間の大部分がバーレスクパフォーマーの舞台裏での様子を描いている[37]。
筋立てがなくてもよかったため、既存の映像を再編集したりパッケージを変えたりし、タイトルも新しくしてほとんど手間をかけずに作品を作ることが可能だったので、エクスプロイテーション映画のプロデューサーや配給元はバーレスク映画を作るようになった[23]。1950年代のデータの中には、バーレスク映画を作るにあたりスタジオが5万ドル以上かけていたということを示すものもあるが、エクスプロイテーション映画を実際に作っていたダン・ソニーによると、早撮りで1日以下で撮れるものすらあったため、ほとんどは1万5千ドルくらいしかかからなかったという[23]。1946年の Hollywood Revels (1946)は、バーレスクをそのまま撮って組み込んだ最初期のハリウッド映画であると考えられている[38]。その後、他のハリウッド映画のプロデューサーもバーレスク映画に進出し、カラー映像やロケーション撮影も行うようになった。Naughty New Orleans (1954) はバーレスクショーを映像におさめたそのような作品の例で、女性たちもジョークも均等に登場させているが、会場はバーレスクハウスの舞台から人気のあるナイトクラブに変わる[39]。
1950年代に入ると、既にバーレスクは過去の娯楽だと考えられるようになっていた。この頃のバーレスクのスターとしてはブレイズ・スターがいる[43]。バーレスクによく出演していたコメディアンのフィル・シルヴァースは、在りし日のバーレスクを懐かしむミュージカル演目であるTop Bananaを1951年に作っている[44]。The Night They Raided Minsky's (1968) は古典的なアメリカン・バーレスクを描いた映画作品である[3]。
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^According to the Grove Dictionary of Music and Musicians, "the various genre terms were always applied freely", and by the 1860s their use had become "arbitrary and capricious": see "Burlesque,"Grove Music Online. Oxford Music Online, accessed February 3, 2011 (要購読契約). In an 1896 article on Burlesque in The Theatre, the three terms are used interchangeably: see Adams, W. Davenport. "Burlesque: Old v. New", The Theatre, March 1, 1896, pp. 144–45
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^Fredric Woodbridge Wilson: "Burlesque", Grove Music Online ed. L. Macy, accessed 4 December 4, 2008, (subscription access)
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