アメノヒボコアメノヒボコは、記紀等に伝わる朝鮮半島の新羅からの新羅人または渡来神。 『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)」のほか「天日槍命」・「天日桙命」・「海檜槍(あまのひぼこ)」とも表記される。 『日本神話』・『古事記』等では渡来人、『播磨国風土記』では渡来神と位置づけて記述される。 記録日本書紀垂仁天皇3年条『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記す。その際に次の7物、
を持ってきて、これらを但馬国に納め永く神宝としたという[1][2]。 垂仁天皇紀3年条一云の系図
同条に記された別伝によると、天日槍は初め播磨国に停泊して宍粟邑にいた。これに対し、天皇は大友主(三輪氏祖)と長尾市(倭氏祖)とを播磨に派遣して天日槍の尋問をさせた。この時、天日槍は新羅王子であると自称し、日本に聖皇がいると聞いたので新羅を弟の知古(ちこ)に任せて自分は日本への帰属を願ってやって来た、と語った。そして次の8物、
を献上した。そこで天皇は播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑の2邑に天日槍の居住を許したが、天日槍は諸国を遍歴し適地を探すことを願ったので、これを許した。そこで天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらくいたのち、近江から若狭国を経て但馬国に至って居住した。近江国鏡村[注 1]の谷の陶人(すえびと)が天日槍の従者となったのは、これに由来するという。また天日槍は但馬国出島(出石に同じ)の太耳の娘の麻多烏(またお)を娶り、麻多烏との間の子に但馬諸助(もろすく)を儲けた。そしてこの諸助は但馬日楢杵(ひならき)を儲け、日楢杵は清彦(きよひこ)を、清彦は田道間守を儲けたという[1][2]。 垂仁天皇88年条垂仁天皇紀88年条の系図
『日本書紀』垂仁天皇88年7月条によると、新羅王子を自称する天日槍が持って来た但馬の神宝を見たいと天皇が言ったので、使者を遣わし天日槍曾孫の清彦に勅命を下して献上させた。その神宝とは次の5物、
であった。ただしこれらとは別に「出石(いづし)」という名の小刀1口があったが、清彦は献上を望まなかったので袍の中に隠して身に帯びていた。しかし天皇が清彦を遇しようと御所で酒を与えたとき、その小刀が袍の中から出た。清彦は隠し通すことを断念し、これが神宝の1つであることを言上すると、天皇はこれと他の神宝とを一緒にして神府(みくら:奈良県天理市の石上神宮の神府か[3])に納めた。そのしばらくのち、天皇が神府を開くと小刀が自然になくなっており、清彦に人を遣わして問いただすと、清彦は小刀が自然と清彦の家に来たがその日の朝にはなくなったと言った。天皇は畏れそれ以上は小刀を求めることをやめたが、一方の小刀はのちに自然と淡路島に至り発見されたので島人により祠に祀られたとする[注 2][4][2]。 また、同条では続けて昔話として、新羅王子の天日槍が小舟に乗って但馬国に停泊し、そのまま但馬に留まったと伝える。そして天日槍は但馬国の前津耳(一云に前津見または太耳)の娘の麻拕能烏(またのお)を娶り、麻拕能烏との間に但馬諸助を儲けたとし、これが清彦の祖父であるという[4][2]。 その他後述の『古事記』では、比売碁曾社(比売許曾神社)の由来が天日槍と阿加流比売神の伝承として記述されるが、『日本書紀』では垂仁天皇2年条の注において都怒我阿羅斯等とその妻の伝承として記述されている[5]。 古事記『古事記』応神天皇記では、その昔に新羅王子という天之日矛が渡来したとし[注 3]、その渡来の理由を次のように記す。 新羅国には「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」という名の沼があり、そのほとりで卑しい女が1人昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事を窺っていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した[6]。 天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流比売神であるという[6](大阪府大阪市の比売許曾神社に比定)。 天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が遮ったため入ることができなかった。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。そして多遅摩母呂須玖から息長帯比売命(神功皇后:第14代仲哀天皇皇后)に至る系譜を伝える(系図参照)。また天之日矛が伝来した物は「玉津宝(たまつたから)」と称する次の8種、
であったとする。そしてこれらは「伊豆志之八前大神(いづしのやまえのおおかみ)」と称されるという[6](兵庫県豊岡市の出石神社祭神に比定)。『古事記』では、その後続けてこの伊豆志大神についての物語が記される。 風土記播磨国風土記『播磨国風土記』では、天日槍について次のような地名起源説話が記されている。 筑前国風土記『筑前国風土記』逸文(『釈日本紀』所引)によると、足仲彦天皇(仲哀天皇)による球磨・囎唹(くま・そお:総じて熊襲)征伐のための筑紫行幸の際、怡土県主(いとのあがたぬし:福岡県糸島市付近の県主)らの祖の五十迹手(いとで)が出迎えた。五十迹手はその言の中で、自分を高麗国(朝鮮の総称か)の意呂山(不詳。一説に蔚山[5])に天降った日桙の後裔としている[13]。 その他アメノヒボコの名はないが関連伝承として、『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)によると、応神天皇の時に新羅国の女神が夫のもとを逃れ、筑紫国の「伊波比乃比売島」に住んだ(豊後国ながら大分県の姫島か[注 4][14])。しかしこの島はまだ新羅から遠くないため男がやって来るだろうと、さらに摂津国の比売島松原に移った。そしてその地名「比売島」は元の島の名を取ったことに由来する、という[5]。 また『豊前国風土記』逸文(『宇佐宮託宣集』所引)では、新羅国の神がやって来て田河郡鹿春郷の付近に住み「鹿春の神(かはるのかみ/かわらのかみ)」と称されたとする伝承を記す[5](福岡県田川郡香春町の香春神社に比定)。 古語拾遺大同2年(807年)編纂の『古語拾遺』では垂仁天皇条において、新羅王子の海檜槍(あまのひぼこ)が渡来し、但馬国出石郡に大社(出石神社)をなしたとする[3][2]。 霊廟アメノヒボコに関わる神社としては、但馬国一宮の出石神社(兵庫県豊岡市出石町宮内)が知られる。この神社は『延喜式』神名帳では但馬国出石郡の名神大社として「伊豆志坐神社八座」と記載されるが、これは『古事記』の「伊豆志之八前大神」とも一致することから、『古事記』編纂の8世紀初頭に遡る頃から8柱の神々が祀られていたと見られる[15]。現在では、アメノヒボコが将来した八種神宝の神霊が「伊豆志八前大神」として祀られるとともに、アメノヒボコの神霊が併せ祀られている[16]。この出石神社の創祀は、社伝を別とすると、実際にはアメノヒボコを奉じる朝鮮系渡来人の一族がその将来した宝物を祀ったことによると推測される[17]。但馬地方では、出石神社のほかにも関係社数社の分布が知られる(「信仰」節参照)。 後裔氏族上記のように、アメノヒボコは『日本書紀』『古事記』では但馬諸助(多遅摩母呂須玖)から神功皇后に至る諸人物の祖、また『筑前国風土記』逸文では怡土県主らの祖とされる。 『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている[3]。
考証
アメノヒボコ伝説は『日本書紀』『古事記』のうちで代表的な渡来伝承になるが、一般には1人の歴史上の人物の説話ではなく、朝鮮半島の土着民渡来人集団をアメノヒボコという始祖神に象徴した説話ではないかという考えもある[5][18][15]。「アメノヒボコ(天日槍/天之日矛)」の名称自体も日本名(もしくは新羅名)であり[5]、出石地域を中心とする朝鮮渡来系一族(出石族)が奉斎した「日矛/日槍」を人格化したことに由来する意見もある[3]。この氏族の渡来の時期は定かでなく、出石神社が弥生遺跡の中心地に位置することや蹴裂による開拓伝承の存在から農耕伝来の時期とする説がある一方[19]、『日本書紀』の「陶人」という記述から須恵器生産の始まる5世紀以降と推測する説がある[15]。また、アメノヒボコの伝承地では鉄文化との関わりが見られることから、須恵器・製鉄技術伝来の伝承を背景に見る説もある[15]。『播磨国風土記』において播磨の地方神たる葦原志挙乎(葦原志許乎)または伊和大神との争いが記されることも、その渡来の様子の一面を表す伝承として注目されている[15]。 この天日槍の一族に関して、日光感精による懐妊説話が(高句麗の朱蒙の母・柳花夫人など)朝鮮・満州・モンゴルなどにみられる神話であることから、元々は日矛を祭祀具に持つ半島系の日神信仰を持つ集団であったと想定する見方も存在する[3]。また赤玉についても、朱蒙の卵生説話など遊牧民族系伝承と類似しているが、この赤玉はその日神祭祀における太陽の象徴品と見られる[18]。加えて『日本書紀』に記される播磨→近江→若狭→但馬という遍歴は、この集団の移動または分布を反映するといわれる[3]。この出石族の氏については「出石君(いずしのきみ/いづしのきみ)」と称したとする説もあるが、古代但馬の人物としては見えないため明らかでなく、一族自体が比較的早期(記紀編纂の頃まで)に衰退したともいわれる[20][19]。出石君とは別に三宅氏と見る説もあり、その説ではヤマト王権が屯倉経営を行う6世紀以後に、出石神社奉斎氏族が三宅氏を称し始めたとする[21]。 『古事記』中に見えるアカルヒメを祀る「比売碁曾社」に関しては、『延喜式』神名帳での摂津国東生郡の「比売許曾神社」、現在の比売許曾神社(大阪府大阪市、北緯34度40分1.28秒 東経135度32分3.01秒 / 北緯34.6670222度 東経135.5341694度)に比定される。大阪市付近では式内社として赤留比売命神社(杭全神社飛地境内社、北緯34度37分21.22秒 東経135度33分30.99秒 / 北緯34.6225611度 東経135.5586083度)の分布も知られるが[5]、この伝承に関わるアカルヒメは元々は日矛を祀った巫女を表すといわれる[5]。このようなヒメコソの神の伝承は『日本書紀』垂仁天皇紀にも記され、そちらでは都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の伝承として記述されるが、その伝承はアメノヒボコ伝説と同工異曲のため[22]同一の神に関する伝承と見られている[18]。「天日槍」の名称自体についても、「ツヌガ(角干:新羅の最高官位)アラシト(日の御子の名)」の日本名になるという説もある[18]。 なお、『筑前国風土記』逸文ではアメノヒボコ後裔として怡土県主一族が見えるが、この怡土郡周辺(現・福岡県糸島市付近)を渡来系集団の最初の上陸地と推測する説もある[5]。また、この怡土地域を始めとしてアメノヒボコ・都怒我阿羅斯等伝承地と神功皇后伝説地がほぼ重なり合うこと、また系譜も繋げて記述されることや、神功皇后伝説にも呪術的な玉が頻出することなどから、出石族の伝承が神功皇后伝説に取り込まれた様子が指摘される[18]。 信仰但馬地方では、上述の出石神社をはじめアメノヒボコに関連する式内社数社の分布が知られる[23][24]。主なものは次の通り[25]。 『出石町史』では、以上のほか城崎郡の海神社も関連社として挙げる[25]。また大永4年(1524年)の「沙門某出石神社修造勧進帳」を始めとする文献には出石神による豊岡盆地・出石盆地の蹴裂伝説が記されており、アメノヒボコないしその奉斎氏族による出石開拓との関連が指摘される[26]。 脚注注釈
出典
参考文献・サイト書籍
サイト
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