アウグステ・カロリーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル
アウグステ・カロリーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル(Auguste Karoline von Braunschweig-Wolfenbüttel, 1764年12月3日 - 1788年9月27日)は、ヴュルテンベルク公子フリードリヒ、後のヴュルテンベルク王フリードリヒ1世の最初の妃。 生涯ブラウンシュヴァイク公カール・ヴィルヘルム・フェルディナントとイギリス王女オーガスタの長女(第1子)として、ブラウンシュヴァイクで生まれた。全名はアウグステ・カロリーネ・フリーデリケ・ルイーゼ(Auguste Karoline Friederike Luise)。イギリス王妃となったキャロライン・オブ・ブランズウィックは妹である。 1780年、ヴュルテンベルク公フリードリヒ2世オイゲンの嫡子フリードリヒ・ヴィルヘルムと結婚、のちのヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世を始めとして4子をもうけた。 結婚後すぐにフリードリヒは妻に対して暴力をふるうようになり、1786年12月に夫妻でロシア訪問の際、アウグステは女帝エカチェリーナ2世の私室へ避難したほどだった。エカチェリーナは、フリードリヒがロシア宮廷から去るよう求める手紙を書くよう指示した。これに、皇太子妃マリア・フョードロヴナ(フリードリヒの妹)が兄を援護し抗議した。エカチェリーナは『ヴュルテンベルク公子の不名誉を隠すのは私ではない』という素っ気ない返事を書いた。 アウグステの父は娘にまったく同情せず、娘の離婚の申し立てを拒絶した。この返答の為、エカチェリーナは帝国領であるローデ(現在のタリン近郊)にアウグステの住まいを提供してやった。アウグステはローデの城で、23歳の若さで死んだ。 子女
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