最上氏
最上氏(もがみし)は、武家・士族だった日本の氏族。清和源氏の足利氏の支流で三管領の一つ斯波氏の分家にあたる。室町幕府の羽州探題を世襲できる家柄で、のち出羽国の戦国大名として成長した。最上義光は山形藩57万石を領する大大名となったが、その死後の1622年に改易され、子孫はわずか5千石の旗本(交代寄合)に没落した[2]。維新後士族[3]。斯波最上氏とも斯波出羽家とも呼ばれることがある。 歴史出自最上氏の起源である斯波氏は、本来足利宗家当主となるはずだったものの北条氏の介入によって廃嫡され分家した足利家氏を祖とする。南北朝時代の延文期(1356年 - 1360年)に斯波氏傍流の奥州管領斯波家兼の子、斯波兼頼が出羽国按察使と称して出羽国最上郡山形(現・山形県山形市)に入部し、山形城を築城し本拠とする。そして、室町幕府より屋形号を許されて最上屋形と称したことを機に所領の最上郡に因んで最上氏を称することとなった。 南北朝・室町最上氏初代兼頼以降、寒河江氏を討伐して出羽国最上郡の南朝勢力を一掃し(1368年漆川の戦い)、2代直家・3代満直が最上郡・村山郡各地へ子らを分散配置することにより勢力を伸張するなど、室町時代に最初の最盛期を迎える。しかし、5代義春の長禄4年(1460年)、古河公方討伐の御教書が最上氏とともに天童氏にも届けられるなど、分散配置した一族が独立傾向を強めた。また、庄内地方を治める大宝寺氏が出羽守を得るなど、中央での斯波氏の勢力低下の影響がこの地方にも見られる。最上義定が永正元年(1504年)家督を継ぐと、後継者争いをする寒河江氏に3度攻め込み、実質的な傘下に置いた。永正9年(1512年)庄内で大宝寺氏と砂越氏が争うと、勝者の村山地方への進出を警戒し、義定は寒河江まで軍を進めた。永正11年(1514年)侵攻した伊達氏と長谷堂城で戦って敗北し、伊達稙宗の妹を義定が 戦国・桃山戦国時代に入って伊達氏内部に天文の乱が起こると、成人した最上義守は伊達氏から長谷堂城を奪還して独立し戦国大名の道を歩み始める。義守の勢力拡張戦略は永禄3年(1560年)の寒河江氏攻めの失敗で頓挫するが、外交面では嫡男最上義光に将軍足利義輝の偏諱を賜り拝謁し、また御所号を賜る[4] など一定の成果をあげた。また、娘の義姫を伊達輝宗へ嫁がせ、義姫は伊達政宗を生んでいる。最上義光の家督相続の際に父子相克の争い(天正最上の乱)が起こるが、義光が家督相続を果たす。以後、庶族の天童氏、近隣の白鳥氏・寒河江氏を滅ぼし最上郡および村山郡を平定する。さらには天正15年から16年(1585年 - 1586年)庄内をめぐり大宝寺氏・上杉氏と争い、また大崎氏を攻めた伊達氏を破った。しかし、同時期の十五里ヶ原の戦いで敗れ庄内への影響力を失う。義光は惣無事令違反を訴えたが豊臣家の裁定により庄内は上杉領に確定し[5] この裁定は両家に禍根を残した。 1590年(天正18年)に覇業を推し進める豊臣秀吉の小田原征伐を機に臣従して本領を安堵され、山形城を居城にして24万石を領する。1591年(天正19年)には雄勝郡4万石余を獲得し、28万石(実高では50万石とも[6])を超え、豊臣政権下では第12位の大名となる。 その後、義光は娘駒姫を関白・豊臣秀次の側室にしぶしぶ差し出す羽目に陥ったが、彼女は秀吉により秀次もろとも斬処されてしまった。これ以前より義光は徳川家康に接近していたが、さらに豊臣氏と距離を置き徳川氏への傾倒を強めた。 関ケ原から江戸時代秀吉の死後の慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると義光は東軍に与し、西軍の雄である上杉景勝の侵攻を受けたが、米沢から北進する上杉軍主力を長谷堂城に拘束し、同年9月15日の美濃国不破郡関が原における会戦で西軍が壊滅した情報が出羽国に届いて上杉軍が撤退するまでの1か月弱(9月8日から10月1日)を耐え抜いた。さらに翌年の慶長6年(1601年)に上杉領の庄内(上杉本領からの飛地)を制圧した。戦後には恩賞として大幅に加増され、現在の山形県全土(置賜地方を除く)と現在の秋田県の一部、約57万石を領する大大名になり、2度目の最盛期を迎える。 →詳細は「慶長出羽合戦」を参照
江戸時代に入ると、義光の後継をめぐって争いが起き、長男の義康の暗殺事件が起こる。以降も家中の内紛は止まず、義光(慶長19年〈1614年〉に死去)の孫である義俊の代に最上騒動が起こった。1622年(元和8年)に最上氏は騒動を理由に改易され、近江国蒲生郡大森に1万石の知行を改めて与えられた[2]。 しかし義俊の死後、子の義智が幼少であったためにさらに5千石に減知され[2]、義智一代限りで高家に列した[3]。義智の後の子孫は近江国大森5千石を領する交代寄合として明治維新まで存続した[3]。 義光の四男山野辺義忠は最終的には水戸藩の家老に抜擢され、子孫は附家老中山氏に次ぐ重臣として藩政に重きをなした。 また、義光の甥にあたる松根光広の子孫は宇和島藩の家老家として続き、幕末には伊達宗城を補佐した松根図書が出ている。夏目漱石の弟子で俳人の松根東洋城は図書の孫である。 明治以降幕末維新期の当主義連は、幕府の大番頭の地位と従五位下出羽守(のち駿河守)の武家官位についていたが、勤王の志が強く海防に尽力し朝廷に早期帰順して本領を安堵され、朝臣に転じて中大夫席を与えられた。中大夫以下の称が廃されると士族編入となった[7]。義連の後は源五郎(義和)、ついで彰義が家督を相続した[3]。 明治以降最上家は士族であったが、華族になることを強く願い、叙爵運動を熱心に行った。最上彰義が大正3年、4年頃(1914年、1915年)と昭和3年(1928年)に叙爵請願書を提出しており、昭和3年の請願書の中では最上家は皇室の恩寵を蒙って堂上公家の清華家に準ずる扱いを受け、屋形号を称し、菊・桐の御紋を許された家格であったこと、山形城主最上義光は従四位上左近衛少将の官位を持っていたこと、旗本に没落した後も外様大名と同様に柳の間詰めで実質大名扱いだったこと、幕末維新時の当主義偆と義連は国事多難の中で海防に尽力したこと、大正13年には勤王の事績が認められて義光に正四位、義連に従四位の贈位があったことなどを列挙したうえで、最上家の華族編籍と授爵を請願したが、結局不許可に終わっている[7]。 現在の当主は最上義治(1953年 - )で、画家として大阪府を拠点に海外でも活動している[8]。 最上一門(最上氏改易前まで)
最上氏主要支族最上氏主要家臣団(戦国期) 系図実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
最上氏系図異説最上氏の系図には異説がある。特に4代満家の死後、義定に至るまでの系図は信憑性が低いとされる。以下に主な異説を紹介する。
最上義定以降は異説は少なくなるが、中野義時は実在しないとの説が有力となるなど異論は存在する。 その他
脚注
参考文献
外部リンク |