旭川志峯幼稚園(あさひかわしほうようちえん、英: Asahikawa-shihō Kindergarten)は、北海道旭川市永山にある学校法人旭川志峯学院が運営する私立幼稚園。
設置者である学校法人旭川志峯学院は、2023年4月1日からの旭川大学の公立化(公立大学法人旭川市立大学への移管)を機に、当園の名称を旧来の旭川大学附属幼稚園から変更している[2]。
概要
1969年(昭和44年)から北日本学院大学女子短期大学部(翌年5月に旭川大学女子短期大学部と改称)に幼児教育学科が設置されたのを受けて、翌1970年(昭和45年)4月に同大学の附属幼稚園として開設[注釈 1] されて以来、今日まで引き続いて幼児教育を行っている。また、2023年3月末まで母体組織であった大学が公立化を機に設置者の法人から離れた後も、後身大学の学生によって当園でのボランティア活動が行われるなど交流が続いている[4]。
沿革
主な出典:[1]
由来
設置者の学校法人の前身組織である財団法人旭川共立女子学園が設立されてその設置学校が法人運営となる前に、法人の創始者である澤井兵次郎が個人立で開設した旭川女学校附属旭幼稚園(1915年〈大正4年〉12月開設[5])があり[注釈 2]、その個人立幼稚園についての継承関係をさらにさかのぼると、歴史的経緯は次のとおりである。
1906年(明治39年)8月に北海道上川郡旭川町6条通10丁目左4号で日本キリスト教会牧師の杉浦義一[6]
がその妻の杉浦信子[注釈 3](園長に就任)と開始した相愛幼稚園があったが、1913年(大正2年)8月に、杉浦が任地変更のため北海道を離れたのを機に、同幼稚園を小林直三郎[注釈 4] が継承した後は、宗教色がなくなるとともに園名を旭幼稚園に改称している[5][9][注釈 5]。その後、1915年(大正4年)12月に旭幼稚園を私立旭川女学校の校主[11] であった澤井兵次郎が継承して同校の付属園とし、澤井自身がその園長に就任している[12][13]。1926年(大正15年)当時の名称は、旭川実科高等女学校附属旭幼稚園(所在地:旭川市4条通、設立者:澤井兵次郎)[14]。その後、1937年(昭和12年)発刊の資料でも存続を確認できるが[15]、戦後(設置者は財団法人を経て学校法人に移行)においては設置者が運営する幼稚園施設の名称は見当たらない[16][注釈 6]。
年表
教育目標
- 「いっしょに育つ心と体」[19]
- 「じぶんがすき」 - できた(達成感)、楽しかった(満足感)、愛されている(安心感)、自分のことは自分でできる(自立心)
- 「みんながすき」 - 集団行動、社会のルール、しつけ、道徳心、励まし合う、助け合う、ありがとう(感謝の気持ち)、役に立つことの喜び、お手伝い等(勤労の意欲)
一人ひとりの違いを認め合う
園の行事
出典:[20]
- 4月 入園式
- 5月 歯科検診
- 6月 内科検診、避難訓練
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- 7月 クラス懇談
- 8月 2学期始業式
- 9月 運動会、秋の遠足
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系列校
かつての系列校
- 旭川大学 - 2023年、旭川市立大学へ名称変更、ただし別法人への移管により系列校ではなくなる。
- 旭川大学短期大学部 - 2023年、旭川市立大学短期大学部へ名称変更、ただし別法人への移管により系列校ではなくなる。
脚注
注釈
- ^ 法人の資料では、前史の旭川女学校附属旭幼稚園を踏まえて1970年の大学附属幼稚園の開設について幼稚園の「再開」と記すものもある[3]。
- ^ 当園の資料でも「大正5年開園の旭川女学校附属旭幼稚園まで溯ることになります」と記されている[1]。
- ^ アニー・ライオン・ハウの項目によれば、杉浦信子は「牧師の夫人で高知より、2人の子どもを連れて神戸に来て、ハウの日本語教師兼通訳を勤めた」経歴の持ち主である(2023年7月18日閲覧)。なお、夫の杉浦義一も神戸や高知に赴任していた経歴がある[7]
。
- ^ 出典の『旭川市史稿 上卷』577頁に、杉浦夫妻から幼稚園を継承したのは「近文一線一号」在住の小林直三郎と記されているが、同書185頁には、小林は旭農場を経営していて、近文の同所区画外に旭農場支場を移転させたとの記載がある。北海道開拓史上において、小林は美瑛の入植者第1号としてその名を知られている[8]。
- ^ 別の出典によれば、旭幼稚園への改称は1914年(大正3年)7月のことである[10]。
- ^ 北海道幼稚園の廃園一覧の項目に「旭幼稚園(廃園時期不詳)」との記載があるが(2023年7月18日閲覧)、その出典によれば設置者の法人は学校法人旭川カトリック学園であるため、戦前にあった本項の旭幼稚園とは異なる。
出典
関連項目
外部リンク