大谷翔平 野球翔年 I

『大谷翔平 野球翔年 I』(おおたにしょうへい やきゅうしょうねん I)は、石田雄太の著書。

概要

2018年6月14日文藝春秋から発売[1]

この書籍の出版時点では、大谷翔平ロサンゼルス・エンゼルスに移籍してすぐで開幕直後から大活躍していた。このような大谷の日本のプロ野球での5年間の軌跡とメジャーリーグでの可能性を大谷本人の肉声と共に綴った書籍。プロ野球では不可能や非常識と言われた二刀流に挑み、投手としても打者としても脅威のレベルで進化して結果を残せた理由は、技術体力はもちろん大谷独自の思考法や可能性を信じ続けることができる信念の強さにあったということが述べられている[1]

速い球を投げることと打球を遠くに飛ばすことと速く走ることは天性の能力によるところが大きいと言われているが、大谷はその全てを備えている。そのような大谷は日本でセンセーションを巻き起こした逸材中の逸材で、メジャーリーグに移籍してからも桁外れのポテンシャルを発揮して、アメリカでも常識を覆す二刀流として進化し続けている。このように大谷はどのような選手でどう成長してきたのかという進化の軌跡がこの書籍で述べられている。この書籍は長年にわたり日米で野球の取材をしてきた人物による丁寧かつつぶさに大谷のマイルストーンを記している[2]

大谷は高校時代からアメリカに行きたいと思っていた。理由はマイナーでやりながら他の人とは違う過程を踏んだとき、自分がどのような選手になるのかという楽しみが大きかったため。全く分からなくて、想像もつかない過程を踏んだとき、自身はどのようになるのかということを自分で見てみたかったため。このことが述べられている時点でも自身はどのくらいまで行けるかという限界は分からないし天辺も見えていないが、この方が大谷本人にとっては楽しみであったということが述べられている[3]

大谷は怪我をしたら必ず二刀流のせいだとか、どちらかに絞るように言われてきた。大谷がプロ野球で二刀流に挑戦しようとしたときは、ほとんど全ての野球人は異を唱えた。理由はこれまでのプロ野球では投手としても打者としてもトップレベルを目指すという話は聞いたことが無かったため。そして続いてどちらも中途半端になるや、怪我をするや、プロを舐めるなと言われてきた。このように前例の無いことに遭遇すると、人は既成の枠に当てはめて考えようとしていた。エンゼルスで故障者リストにいれることが発表された時にも言われていた。投手としても打者としてもこんなに高いレベルにあるのだから、どちらかに絞ればもっと凄くなるという先入観に縛られた野球人は少なくなかった。これに対して大谷本人は、両方やるから難しいのではなくどちらも難しい。このためどちらかに絞っていたとしても、もっと勝てていたりもっと打てていたとは思わないとは思わなかったということが述べられている[4]

大谷が日本ハム在籍時の栗山英樹監督が大切にしている考え方の1つには、予備知識というのは重いほど良く先入観は軽いほど良いというのがある。これは栗山が現役選手時代の監督であった野村克也の言葉でもある。栗山によると野球というのはデータが物を言うスポーツであるため、予備知識というのは作戦を練る上でとても大切なものであるが、それが先入観になってしまうと、本来見えるはずのものが見えなくなるという怖さがあるとのこと。大谷が日本ハムに入団するにあたりほとんどのプロ野球関係者は二刀流など不可能と批判していたのは先入観からであったが、栗山は先入観なしに大谷の才能や素質を見ることで、もしかしたらできるのではないかと思えたからこそ、大谷の挑戦本気で後押しすることができていた。大谷は高校時代に160キロの球を投げるということを目標として達成したのだが、これはできないと思ったら終わりだと自分に言い聞かせながら練習していたからこそ達成できたのである。もしこの時に自分で無理だと思っていたらできなかったと思うと振り返る。そしてそれからも最初からできないと決め付けないようにしようと思うようになる。このような高校時代の大谷を支えていたのは、佐々木洋監督に言われた先入観は可能を不可能にするという言葉からであった。これ以降も大谷は日本でもメジャーリーグでも不可能と思えるようなことを次々と実現してきたのであるが、これを可能にしたのはできないという先入観を捨てて、やってみようやできるはずだと果敢に挑戦し続けてきたからであるということが述べられている[5]

大谷を10年に1度の逸材から100年に1人のオンリーワンに変えたのは、急がば回れの精神であった。大谷は高校卒業から直接アメリカでプレーすることを希望していた。そのような大谷にドラフト会議で1位指名した北海道日本ハムファイターズは「大谷翔平君 夢への道しるべ」と題した資料を作成した。この資料の1ページ目には唐突に琵琶湖写真が挿入されていて、この写真と共に向こう岸に急いで行くならばで行かずに陸路を遠回りして行きなさいというコメントが寄せられていた。こうして大谷は北海道日本ハムファイターズに入団してそれからアメリカに渡ったのだが、このことを日本ハムの栗山監督はファイターズ大学4年と大学院1年を経てメジャーリーグに旅立ったとしていた。そしてエンゼルスのゼネラルマネージャービリー・エップラーは23歳の大谷をゆっくり歩かせたいと、アメリカ流の急がば回れの表現で大谷の進路を示したということが述べられている[6]

大谷はこれまでに結果を出すためにやりつくしたと言える1日1日を大事に過ごしてきた自信を持つ。努力をしたのに成果が上がらなければ努力不足や能力不足に向き合うことになるが、怠惰な人はもっと一生懸命頑張れば成果は上がったはずだという逃げ道をつくることができる。全力で頑張ったけど駄目だった人というのは自分の限界や能力の無さを思い知らされるのだが、中途半端な努力のために結果が出なかった人というのは本気でやればもっとできるという言い訳ができるし能力の無さと向き合う必要も無い。全力を尽くさないことは最初から失敗の言い訳を用意することであり自分の弱さを隠すことでもあるため気分的には楽かもしれないが、このような人が圧倒的な成果を手にすることは決して無い。成功には努力が欠かせないことは誰でも知っている。だが多くの人はそこそこの努力でもう十分にやったと納得しているのだがそれでは駄目で、結果が出るまでやり尽くして初めて本当の努力と呼べる。大谷の二刀流への挑戦を提案して支え続けてきたのは日本ハム時代の栗山英樹監督であるが、栗山が大谷ならできると思えた理由の1つは、大谷が子供時代から実践してきた自分がこうだと決めたら最後までやり続ける強さと忍耐力であったということが述べられている[7]

脚注

  1. ^ a b “野球翔年”大谷翔平の五年間の軌跡『大谷翔平 野球翔年 Ⅰ 日本編2013-2018』石田雄太 | 単行本 - 文藝春秋”. 文藝春秋BOOKS. 2024年9月22日閲覧。
  2. ^ 大谷翔平ロスにオススメ! 雄弁すぎる言葉で解き明かされる、5年間の奇跡の軌跡”. KADOKAWA. 2024年9月22日閲覧。
  3. ^ 『大谷翔平 野球翔年 Ⅰ』特設ページ”. Number Web - ナンバー. 2024年9月22日閲覧。
  4. ^ 雄太, 石田 (2018年6月29日). “大谷翔平「二刀流のせいでケガをした」という“先入観”を乗りこえて”. 文春オンライン. 2024年9月22日閲覧。
  5. ^ だから大谷翔平は何度も前人未到をやってのける…世界初"50-50"達成の背景に挑戦を支えた"恩師の言葉" 監督に"内緒"で+3してありえない数字「目標163km」と書いた高1の冬”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2024年9月20日). 2024年9月22日閲覧。
  6. ^ 産経新聞 (2018年6月23日). “【編集者のおすすめ】『大谷翔平 野球翔年I 日本編2013-2018』驚くべき超ポジティブ発想”. 産経新聞:産経ニュース. 2024年9月22日閲覧。
  7. ^ "50-50"に目もくれない…大谷翔平「打率10割で100%」とてつもなく高い目標と1試合をやり尽くす"今ここ"主義 「完璧な1試合の延長線上に完璧な1年がある」 (3ページ目)”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2024年9月20日). 2024年9月24日閲覧。